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対上杉前線基地那須大田原城

(那須大田原城縄張図) (洋泉社『北の関ケ原合戦』より) 対上杉最前線の基地として徳川軍によって大改修されたのが那須大田原城である。 この城は奥州街道の渡河地点を押さえる地点に築かれており、軍事的にも重要な城である。 二の丸・本丸は周囲を7...
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伊王野城2

この城の特徴はまず何といっても100メートルは続こうという切岸である。 これを見ただけでも戦意は消失しそうである。この切岸上には塀や柵が設けられ、そこから鉄砲や矢で狙われていたことであろう。 一番大きな南の曲輪は周囲を土塁が巡り、虎口は二つ...
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対上杉徳川最前線の城 伊王野城

芦田城と並んで、那須地方の最前線となった城が、国衆伊王野氏の城を徳川軍が改修した伊王野城である。 この城は、会津と那須をつなぐ二つの街道の合流地点に位置する。 徳川軍にとってはどうしても押さえなければならない城である。
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徳川の最前線那須芦野城

対上杉の最前線基地として那須の国人領主芦野氏の城が徳川軍により大きく改修された。 (芦野城縄張図) (洋泉社『北の関ケ原合戦』より) 芦野氏の城は縄張図の本丸、北の丸、本丸南の小曲輪程度の規模であったと思われるが、徳川軍はこれに二の丸、三の...
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関山合戦の真実2

(関山城大手道) 伊王野軍が関山に密かに早く登るにはわざわざ山の北に回り込んで危険を冒して大手を行くより、きつくとも南側の搦手から登るしかない。だが、関山南面山麓には内松・番澤などの村があると同時にそこは関山で最も警戒しなければならない場所...
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関山合戦の真実

以上のことから、伊王野氏のまとまった兵が上杉の防衛線を簡単に突破して関山にまで進むことは考えにくい。 前回で見たように、関山山麓には上杉軍千余が布陣しており、その中を突破して関山に登るなど事実上不可能であろう。 『継志集』に描かれている「関...
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村々の力を借りて国境防衛につとめていた上杉氏

上杉の拠点白川城にも「凡下(百姓たち)」の者が入っており、これも農兵だったと思われることから、上杉領境目の防衛を担っていたのはまさに白河近郷の村々の農兵であったものと思われる。 白河に出された陣中掟書に「法度の如く褒美の事」(「芋川文書」)...
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関山山麓の村を押さえた上杉軍

国境を村人が守っていたことをうかがわせる興味深い記録がある。 それは「元和八年(一五二三)に関山の地主秋場雅楽、穂積重右衛門が領主に出した書付である。 そこには、慶長5年、徳川と上杉の緊張が高まる中、関山の百姓たちの動きが記されている。 そ...
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三本目の街道を守る下黒川城

境目三本目の街道は那須塩原から七曲を経て奥州下黒川に至る街道である。 ここでは黒川という幅百メートルほどの川を渡らなければ上杉領には入れない。 そのため、川の存在が大きな防御線となっている。 当時、ここには正規の橋など架けられてはいなかった...
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白河街道を守る小屋山城

前回述べたが、当時の白河街道は現在と異なり、関の守城の東の湿地帯の中を通っていた可能性が高い。 白河の関跡の南には今も小川が流れているが、当時の街道はまずこの川を渡り、次に関の守城の東の湿地帯を通らなければならなかった。 白河の関の守りは足...