2021-03

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川中島合戦雑記19(大文字一揆の武士たち)

また、主に犀川以北、善光寺方面を押さえていたのは大文字一揆と呼ばれるの領主たちであった。 彼らは、犀川流域を押さえることにより、犀川一帯の水陸にわたる交通路を押さえ、その流通に深く関わっていたものと思われる。 このうち、窪寺氏は善光寺から仁...
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川中島合戦雑記18(善光寺平の武将たち)

信濃北信地域は古代から同じ信濃の内でも中信、東信地域よりも日本海越後に近い文化をもっていた。 このことは、川中島善光寺平は単に信濃と越後の国境地域というよりも越後との結びつきの深い地域であったともいえる。 この地に、小笠原氏などの中央の守護...
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川中島合戦雑記17(善光寺周辺の城と防衛)

嘉慶元年(一三八七)の戦いのように、当時の信濃は守護と善光寺在地の領主たちを含んだ北信の武将たちとがしのぎをけずっており、善光寺周辺は常に軍事的に緊張をはらんでいたといえる。 守護所の詰の城として小柴見城、旭城がその背後の山に築かれていたの...
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川中島合戦雑記16

室町時代、建武二年(一三三五)ころ、時の後醍醐天皇の命を受けた信濃守護小笠原貞宗はただちに埴科郡船山(更埴市)に守護所を置いた。 船山は小県、佐久、関東上野を結ぶ軍事的にも要衝の地であったが、その後嘉慶元年(一三八七)までには守護所は時の守...
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川中島合戦雑記15

鎌倉時代、この善光寺付近には悪党と呼ばれる幕府に反抗的な武士たちが多く集まっていた。 それは善光寺のある地が宗教的な中心というばかりではなく、後庁という信濃国府の支庁が置かれたことからも分かるようにここが信濃北信地方の政治経済の中心であり、...
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川中島合戦雑記14

鎌倉時代、善光寺は鎌倉幕府の創始者源頼朝も信仰をよせており、善光寺が治承三年(一一七九)焼失したときも、信濃の目代(国司の代官)などに命じて土木人夫を提供させている。 また、頼朝自身も建久八年(一一九七)御家人を率いて善光寺に参詣したと伝え...
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川中島合戦雑記13

古代の善光寺への参詣は開かれたものではなく、巡礼者や僧などの宗教者が主であり、一般庶民の参詣はなかったようである。(『長野県史』)  この善光寺の名が全国的に知られるようになったのは、天台宗寺門派の本山である園城寺(三井寺)の末寺となってか...
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川中島合戦雑記12

また、仏教も日本海から信濃川をさかのぼってこの地に伝えられてきており、それを象徴するように、信濃の古い仏像は信濃の北部にその多くが伝わっている。 その信濃北部の中でもこの川中島の地が仏教を早くから受け入れてきたことは事実であろう。 それは、...
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川中島合戦雑記11

現在、信濃の前方後円墳は全部で四十八が確認されているが、そのうちの二十が実は川中島にある。 このことは、この地が信濃における古墳文化の中心地であったとともに、それを裏付ける豊かな生産力を有していたことを意味している。 また、平安時代に作られ...
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川中島合戦雑記10

川中島の起源は古い。そこは古代はかつて河床もしくは湖底であったと考えられており、それが犀川と千曲川の氾濫でやがて荒野原と化し、古代は狩猟の場であったと推定されている。 また、犀川と千曲川両河川の度々の洪水により氾濫原となって、氾濫の繰り返し...