2021-04

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川中島合戦雑記34(善光寺から戸隠へのルート葛山城を落とした信玄)

信玄がターゲットとした葛山城は善光寺の背後にあって、善光寺から戸隠を経て越後へ通じる街道を押さえる要衝に築かれおり、ここを抜けば、飯綱・戸隠社はもとより、越後への侵入も可能になり、謙信に大きなダメージを与えることは必定であった。 信玄は雪...
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川中島合戦雑記33(善光寺本尊を持ち帰った信玄)

このような状況を見かねた駿河(静岡県)の戦国大名今川義元が両軍の仲介に入り何とか和議を結ぶことで決着がついた。 こうして、閏十月十五日、両軍は川中島から撤退した。 しかし、善光寺を支配する栗田氏が武田方についたことから大きな危機感をおぼえ...
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川中島合戦雑記32(第二回川中島合戦は善光寺の争奪戦)

旭山城は善光寺のすぐ西にそびえる旭山山頂に築かれていた城で、そこから善光寺、さらには謙信の本陣横山城をその眼下に見下ろすことができた。そのため、謙信にとっては戦術的にも大変に目障りな城であった。 その意味で信玄はまさに謙信の裏をかいたとも...
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川中島合戦雑記31(謙信と信玄の善光寺争奪戦1)

そのため、善光寺のもつ大きなきな影響力を背景に、善光寺の付近には後庁という信濃国府の支庁が置かれるようになり、政治的色彩を帯びるとともに、この地は北信地方の中心地ともなっていったのである。 このように、善光寺は全国の阿弥陀信仰の総本山とし...
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川中島合戦雑記30(源頼朝・北条氏が尊崇した善光寺)

善光寺の歴史は古く、境内から出てきた最も古い瓦が法隆寺形式といわれるものであるころから、その創建は少なくとも奈良時代以前にはさかのぼるものと推定されている。 善光寺は当初は大陸から帰化人が持って来た仏様を安置する寺として出発したようで最初...
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川中島合戦雑記29(善光寺の争奪3)

守護小笠原長秀の暴挙に怒った村上氏と川中島の中小の領主の集団である大文字一揆は長秀に反旗を翻して兵を挙げ、小笠原軍を蹴散らしてとうとう小笠原長秀を信濃から追い出してしまった。 この事件で長秀は善光寺を支配するどころか逆に信濃守護を追われ、...
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川中島合戦雑記28(善光寺の争奪2)

戦国時代当時の善光寺は、日本の阿弥陀信仰の本山ともいうべき宗教上の聖地であり、それに伴って日本中から参拝客と大量の物資が集積する信濃第一の政治経済上の要地で市も立っていた。 ここを押さえれば、大きな経済上の利得を得ることができたことは容易...
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川中島合戦雑記27(善光寺の争奪1)

「牛に引かれて善光寺参り」という有名なフレーズがあるが、善光寺への参詣は今も昔も盛んである。 だが、この善光寺、歴史をたどれば過去に一度だけ誰一人として参詣に来ない時期があった。 それは、善光寺の本尊はおろか仏像、仏具、さらには僧侶に至る...
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川中島合戦雑記26(善光寺を守る城)

善光寺の至近にあって守護方の城と推定されている城として横山城がある。 城跡は現在善光寺のすぐ東の彦神別神社の境内から城山市民会館にかけてわずかに痕跡を留めているが、この城は善光寺の隣といっていいくらいの至近さで、まさに善光寺防衛のために築...
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川中島合戦雑記25(善光寺門前を流れる二つの川)

川中島から犀川を渡ると善光寺に至るが、この善光寺の景観も現在とは大きく異なっていた。 現在は犀川を渡り善光寺に行くまで一本の川にも出会わないが、当時は犀川から善光寺に至るまでに裾花川、鐘鋳川という二つの川を渡らねばならなかった。 裾花川...
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