2019-12

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旧材をもって築かれた彦根城

『井伊年譜』によれば、「惣テ石垣ノ石櫓門等迄、佐和山・大津・長浜・安土ノ古城ヨリ来ル」とあり、彦根城は周辺の城の旧材をもって築かれたことをうかがわせている。 これによれば、彦根城はその周辺にあった安土、長浜などの織田・豊臣系城郭を壊し、そ...
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西国大名への監視 彦根城

彦根築城が決まった慶長八年、家康は朝廷より征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開き、新たな武家政権への一歩を踏み出した。 しかし、大坂城には西日本に睨みをきかせているもう一つの権威として豊臣秀頼が健在で、家康が完全に天下を掌握するにはそれは...
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彦根山への築城

直政は彦根の地に新たに城を築くことにした。 というより、それは井伊家にとって家康の意を受けたものであった。 直政は当初、新城を佐和山の北、琵琶湖に突き出た磯山に築く予定であったという。そこはかつて戦国大名浅井氏の家臣磯野氏の城があった場...
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彦根築城

佐和山城は関ヶ原合戦直後に徳川家康に攻められ落城し、山頂にあった天守閣をはじめ本丸内の建物のいくつかは焼失していたが、二の丸、三の丸ら建物施設はそのまま残っていたようで、井伊直政はまずそこに入ったようである。 『古城御山往昔咄聞書集』によ...
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佐和山城の痕跡

だが、そんな跡形もない佐和山城の跡からもわずかであるが、三成の佐和山城を暗示するいくつかの遺物が発見されている。 城郭研究家の中井均氏は、佐和山城からは本丸、西の丸という頂上附近から瓦が多く採取されていることから、本丸、西の丸には少なくと...
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佐和山城の徹底的破壊

佐和山城の城跡には、近年、山頂付近で石垣を構成していたと推定される二段の石がわずかに見つかっただけで、それ以外には石垣の痕跡すら見つけるのは難しい。 また、近年実施された佐和山城の旧本丸斜面の一部発掘では、石垣が崩され、その後斜面が崩され...
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佐和山城の「城割り」

しかし、逆に、外からよく見えない部分は破却を免れる場合が多く、現在、残っている遺構はそうした部分が多いのだという。 これは城を壊すといっても、そこには時間と手間と労力、そして何といっても無駄な金がかかるからなのだろう。 だが、佐和山城は...
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破城のルール

次の新たな領主が入ってきたとき、領主の交代を領民に示すために前の領主の城を破却することは戦国時代から行われてきた慣習でもあった。 その城を壊す行為は「城破り」または「破城」といって、この時代はある意味では一般的に行われてきた行為である。 ...
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佐和山城本丸の切り落とし

彦根藩が江戸時代に行った『古城山往昔之物語聞書』という「聞書」によれば、「井伊家がこの地を拝領した後、(城を)切り落とした」とあり、続いて「九間(一六・二メートル)切り落としたともいい、七間(一二・六メートル)ともいう」とある。  この...
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佐和山城への思慕

城ばかりではなく、佐和山の領民たちは領主である石田三成を慕っていた。  それは一つには三成が領内石田村の生まれで、いわば地元出身の出世頭であったからである。  つまり、三成はいわば故郷に錦を飾る形で地元佐和山の城主となって帰ってきたと...
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