2021-02

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川中島合戦雑記3

当時、謙信は関東管領になったばかりで、今後は関東を舞台に北条氏と戦わねばならないという事情があった。 そのためには関白である近衛前久の力を必要としていたし、前久も謙信の力を頼ってわざわざ都から関東まで来ていた。 謙信としては、近衛の前に...
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川中島合戦雑記2

今まで見てきたこの合戦の話はというと、江戸時代初期の元和年間(一六一五~一六二三)に完成したとされる『甲陽軍鑑』という軍記書に書いてあるものなのである。 そこには確かに合戦の内容は詳しく描かれてはいるが、『甲陽軍鑑』は川中島合戦から五十年...
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川中島合戦雑記1

川中島合戦は本当にあったのか? 永禄四年(1561)九月十日、信州川中島において武田信玄と上杉謙信が激突した。 そこでは、大量の戦死者が出、川中島を流れる千曲川は血で染まったとも伝えられている。 この合戦は、上杉謙信が一万三千の兵を率...
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佐和山城下「聞書」の謎27(終わり)

井伊家は佐和山入部に伴い、佐和山城を破壊し、佐和山城下にあった神社・仏閣を破壊し、城下にあった村を潰し、さらには、石田家時代の神事・仏事を禁止し、石田時代の文書を破棄し、さらには、石田家や佐和山城に関する一切の話をも禁じていったが、 そこ...
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佐和山城下「聞書」の謎26

「聞書」は井伊家の旧物破壊が「直政公、直孝公のお考えは、佐々木、又は石田時代より当所にあるものは一つ一つ潰していくということである。」という目的のもとに行われたことを述べ、さらに「郷中でこれまで所持してきた村方の書付、水帳類までも残らず取り...
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佐和山城下「聞書」の謎25

さらには『彦藩並近御往古聞書』には「直孝公の時分は禅宗の修法大会の類ばかりではなく、伊勢講、頼母し講の類、多く人の集まることはやってはいけないという。」という記述がある。 これらのことから、井伊家は、石田家時代を含めこれまで伝来した書物、...
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佐和山城下「聞書」の謎24

しかし、井伊家の破壊は旧佐和山城下だけではなく、領地外にまで及んだ。 『当城下近辺絵図附札写全』には「御領分はいうに及ばず、南は八幡辺りまでもお役人が行って、荒地を潰した。」とあり、井伊家は家康の意向をたてに領地外にまで強硬な態度で臨んだ...
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佐和山城下「聞書」の謎23

さらに、『当城下近辺絵図附札写全』には「城下の場所ご入用につき、彦根村、安養寺村、彦根中村、里根村をお潰しになり、このとき、村は大騒動になり、百姓たちは立腹してお役人と口論になった」 「直勝公の時代、彦根を開くとき、右の村(里根村)を一々...
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佐和山城下「聞書」の謎22

しかし、ありとあらゆる神社・仏閣が破壊されたのかというとそうではなく、中には八幡宮などのように昔から国内外に聞こえた由緒ある神社は破壊を免れている。 また、その他にも成就院のように名前や宗旨を変えられて存続したものもあった。 これら「聞...
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佐和山城下「聞書」の謎21

『淡海落穂集』にはこの神社仏閣の破壊にともなって発生したある事件のことが描写されている。 少し長い引用になるが、そこには「慶長年間に彦根山に城が出来たとき、彦根寺、門甲寺を引いた時、残った社寺欽明殿養花院を他所へ立ち退かせると奉行が言い渡...
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