2021-12

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佐和山の思い出8

もう随分昔のことになりますが、石田三成の子孫であられる石田多加幸氏から興味深いお話を聞いたことがあります。それは江戸時代、彦根城築城に伴う佐和山の破城についてのことですが、石田氏が仰るには佐和山城を壊すとき、廃材を佐和山の谷(女郎ヶ谷か?)...
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佐和山の思い出7

先週の土曜日25日放映のBS11「偉人・素顔の履歴書」に出演させていただきました。いつも思うのは石田三成の全体像はとらえるのが大変難しいということです。部分部分は合っていても、全体像となると決定版などいまだありません。それほど、三成は単純で...
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佐和山の思い出6

佐和山城はもともと中世戦国時代の城であったものを織豊系城郭に変えたと思われ、両方の遺構が混在している。そのため、小さな曲輪も多い。その曲輪がすべて石垣作りであったとは思えない。ややこしいのは、彦根城が築かれるに及んで佐和山城のほとんどすべて...
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佐和山の思い出5

柴田左近が大手から見た佐和山城は、高石垣の上に天守や櫓の建つ立派なものであったろう。今に伝わる謡によれば、大手からは山頂の本丸御殿の豪壮な屋根も見えたようである。佐和山城は豊臣政権の中枢、奉行筆頭の石田三成の城として外見は豪華な作りであった...
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佐和山の思い出4

佐和山城の大手といえば、ある一つの出来事を思い出す。それは慶長四年に起こった加藤清正、福島正則ら七将による三成襲撃事件により、三成が佐和山に引退させられた時のことである。家康の命で三成は奉行筆頭の座を追われ、居城佐和山に引退させられたが、三...
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佐和山での思い出3

大手門跡が残っているところは必然的に佐和山城の大手になるが、そこは街道に面した場所で、琵琶湖側は搦め手ということになる。しかし、琵琶湖は京都までの重要な水路であり、水運の要であったことを考えれば、決して搦め手とはいえない要素もある。事実、安...
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佐和山の思い出2

ドライブインのおかみさんに言われた石垣の跡が気になって、佐和山トンネルを抜けて後ろを振り返って佐和山を見たが、樹木に覆われていたこともあってそんな石垣はどこにも見えなかった。それから、佐和山に来るたびにそれを繰り返したが、延々と続く石垣など...
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佐和山の思い出

もう随分まえの前の話だが、滋賀県彦根市の佐和山城跡の麓に一軒のドライブインがあった。見た所、やや古い感じがするコンクリートの建物であったと記憶している。そのドライブインのある場所は佐和山トンネルの入り口付近で字名を「枡形」と言った。「枡形」...
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滝山城築城500年記念講演会より 11

(中田正光氏作図 滝山城千畳敷)滝山城千畳敷は政庁、客人を迎える御殿のような建物が建つ平和文化空間であったと思われる。しかし、その東には角馬出が上図の様に設けられている。ただ、角馬出は小ぶりで、さらに馬出を囲む堀も狭く浅い。この角馬出はとて...
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滝山城築城500年記念講演会より 10

千畳敷の角馬出千畳敷は、政庁、そして客人をもてなす空間として、その目的に沿った建物が建っていたと思われる。いわば千畳敷は城内唯一ともいえる平和な空間で軍事的要素は必要ない場でもあろう。しかし、ここには、曲輪東側に小さめではあるが堀を伴った立...