2021-05

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大分官庁街にそびえる府内城

(府内城 内堀と櫓) (府内城 天守台の石垣) 大分訪問の初日、宿泊したホテルのそばに江戸時代の府内城の跡があるというのでさっそく夕方、散歩がてら行ってみた。 城は大分市のメイン通りにあり、道路を挟んで県庁と市役所のビルが建っ...
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平家の一大拠点 京都六波羅

京都市東山区といえば、清水寺や三十三間堂、平安神宮、銀閣寺などのある今や有名な観光地であるが、その一角、東山の西麓東山区五条通りに「六波羅蜜寺」という寺院がある。 現在は朱塗りの本堂と宝蔵を残すだけのこじんまりとした寺院になっているが、平...
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義経の戦い(飢餓と疫病の時代3)

この状況を知った義経は自ら平家追討に乗り出すことを決意した。 義経は当時頼朝から都の守護を命じられていたが、後白河法皇に嘆願して許しをもらい単独で平家追討に向かったのであった。 義経が摂津(大阪府)渡辺の津から船で四国に渡ろうとしたとき...
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義経の戦いー飢饉と疫病の時代2

当時の記録『方丈記』によれば、「春・夏は日照り(干ばつ)、秋には大風、洪水が発生し、五穀がことごとく生産できない。これによって、国中の人々は土地を捨てて、国境を出、家を捨てて山に住む。乞食は路のほとりに充満し、嘆き悲しむ声が消えることはない...
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義経の戦いー飢餓と疫病の時代①

壇ノ浦 本州の最南端下関と九州の玄関門司との間にある「関門海峡」。その最狭部は「壇ノ浦」と呼ばれ、その幅は約六五〇メートル。川幅に等しい狭さでしかない。 だが、この壇ノ浦は今も海が「ごうごう」と音を立てながら激しく流れており、海というよ...
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川中島合戦雑記41(海津城築城構想3)

だが、それらの街道、峠を扼す場所には海津城築城以前にすでに城が設けられていた。 例えば、海津城の東の標高七八一メートルの尼飾山山頂には東条氏の築いた尼飾城が、そこから二百メートルほど下った西北の山に寺尾氏の寺尾城とその支城、金井山城がそび...
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川中島合戦雑記40(海津城の築城構想2)

そんな海津の地に信玄が拠点となる城を築くべく目をつけたのはさすがといわざるを得ない。 しかし、同時に、そこに城を築くにあたってはクリアしなければならないいくつかの課題があった。 というのは、海津の東西南にそびえる山々は確かに敵の侵入を阻...
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川中島合戦雑記39(武田信玄の海津城築城構想①)

海津城は千曲川河畔、現在の長野市松代町に築かれた平城である。 今でこそ、千曲川は城から七〇〇メートルほど北西を流れているが、かつては城に接するように城のすぐ北東を流れていた。 この城は広大な川中島の経営にあたる拠点、政庁として、また、越...
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川中島合戦雑記38(謙信の挑発に乗らなかった信玄)

信玄は謙信から「実の父親を追放し、浪人乞食の身に追いやっている」という非難を受けているが、信玄の父信虎は今川家では客分としての扱いを受けており、特に不自由な生活を強いられてはいなかったようである。 さらに、信玄も今川氏には父を面倒見てもら...
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川中島合戦雑記37(願文で信玄のパワーを奪おうとした謙信)

謙信は、また、川中島の合戦に際して、川中島八幡の更級八幡宮と越後蒲原郡弥彦神社に信玄に対する願文を捧げている。 更級八幡宮へは弘治三年(一五五七)一月二十日に願文を捧げているがそれには「信玄が信州に乱入し、神社仏閣を壊し、国中の人々を悲嘆...
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