真田の里を歩く9

先にも述べたが、昭和二十二年ころに真田館跡から約二千枚にもわたる中国銭の永楽通宝が出土している。
また、そこには現在も矢竹の茂みが残っているが、矢竹の茂みはこの近辺では館周辺だけに残されているという。
矢竹は文字通り矢の材料となる竹であり、武士が自分の館内に植えておくものである。
それらのことから、ここに真田氏が住む館があったことは間違いがない。
この館跡は南が岩井堂川の谷に面し、北側に空堀があったと推定され、それら現在残るわずかな遺構からその館の規模を推定すると約百メートル四方の方形の館になるというから、結構大きな館であったことが分かる。
しかし、この辺りを一時間ばかり、探しても居館の跡などどこにもない。
というより、そこには100メートル四方の居館が建つような平地が存在しないのである。
かつての上州道沿いに一件だけ雑貨屋さんがあったので、そこで、ジュースを買って、古地図を見せて、聞いたら、何と、真田館は上州道沿いの斜面上に建っていたことが分かった。
いくら探しても見つかるわけはない。
古地図は立体的になっていたのであった。
斜面を登ると古地図にある岩井堂川の小さな流れがあった。
しかし、これも斜面を流れる川であったのだ。
古地図で持仏堂とされているところは、現在は集会場になっていた。
そして、真田館の跡には現在民家が建っていた。
真田館は、斜面上に建つことにより、敵からの攻撃を受けにくく、さらには上州道を監視することが出来たのである。
ちなみに、雑貨屋さんいよれば、上州道はもともと二ヵ所が折れ曲がっていたが、不便なため、真直ぐにしたとのこと。
これでやっと納得できた。

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