2021-10

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「古城図」を見ながら滝山城を歩く3

いよいよ、11・3の講演会が近くなってきた。 「諸国古城図 武蔵滝山城」 滝山城の魅力をすごさをどこまで伝えられるか不安は尽きないが、与えられた時間精一杯にお話しするつもりである。 願わくば、主要な遺構の発掘復元、それが無理なら曲輪や堀のレ...
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「古城図」を見て滝山城を歩く2

「慶安古図」滝山城を描いた人物は、軍学に通じ、城の巧緻な縄張りを読み取れる力をもっていたことは間違いない。 また、「慶安古図」を描いた当時、滝山城は大手門の土塁をはじめ現在では見られない数々の遺構が残っていたことであろう。 しかし、同時に城...
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「諸国古城図」を見ながら滝山城を歩く

11・3の講演会の下見で中田正光先生の案内で久しぶりに滝山城を歩きました。 今回の目的は「浅野文庫諸国古城図」の武蔵滝山城の絵図と実際の滝山城がどう異なるかを調べるためです。 今回は「慶安古図滝山城」も持参したのですが、「浅野文庫諸国古城図...
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11・3武蔵滝山城築城500年記念講演会

11月3日(水)13:30分から八王子で滝山城築城500年記念の講演会が行われることになった。 メインの講演は著名な中世城郭研究家の中田正光氏による「滝山城 戦火の中の民衆」で、戦国の城は民衆の避難場所であり、戦火において民衆を保護するのが...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城28

そう考えると、南宮山の毛利軍ら三万の大軍が動かなかったのは、家康への内通が原因ではないことになる。 結論的にいえば、南宮山の大軍の行方はすべて大坂城にいる毛利輝元の意志であった。 毛利輝元は信頼する安国寺恵瓊を使って、大垣、関ヶ原周辺の石田...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城27

家康が大軍を動かせる一番の前提は、美濃垂井南宮山の毛利・長曾我部・長束の三万の兵が動かないということである。 彼らが山を下りて動けば、家康方は進路を妨害されるばかりか、そこで合戦にもなろう。 何せ、南宮山の前面には中山道が通っているのである...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城26

慶長5年(1600)9月14日深夜、石田方は大垣城を出て、関ヶ原へと向かった。 しかも、松明の火を消し、馬に轡をかませ、家康の裏をかくように中山道ではなく、牧田の間道を通って移動した。 そこでは、南宮山の隣の山に布陣していた長曾我部隊の篝火...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城25

家康が美濃赤坂岡山の本陣に入ったのは、関ヶ原合戦の前日9月14日の正午ころであった。 このとき、石田方主力は大垣城にいたが、小早川秀秋1万5千の大軍が松尾山城の番をしていた部隊を追い出して強引に入城したという知らせが石田、家康、両者に伝えら...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城24

家康は、南宮山の毛利軍が動かないこと、脇坂が松尾山に入った小早川と共に石田方を寝返って、関ヶ原山中の隘路の防備を家康方に突破させる。 この二つの要素が確実でない限り、関ヶ原に兵を進めることなどできなかったはずだ。 家康は合戦前日の正午ころ美...
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慶長の山城 関ヶ原松尾山城23

ただ、問題は石田、家康、双方で関ヶ原での合戦がいつ始まるかということである。 合戦というタイミングがない限り、双方の寝返りは難しい。 また、大津城の攻防に勝利した立花宗茂ら1万5千が、丹後宮津城を攻めを終えた小野木1万が近日中に石田方に合流...