2022-01

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関ケ原前夜「慶長記」を読む2

三成襲撃未遂事件の裏に両者の根深い対立を見た中老の生駒親正、堀尾吉晴、中村一氏は家康にもっと防備の整った屋敷に移るよう進言する。それは伏見向島の古城であった。家康は彼らの意を受け、向島古城を修築してそこに移ることにする。古城修築の間、周辺に...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む1

昨日、25日はNHK学園歴史講座で講生の皆様と「慶長記ー関ヶ原前夜」を読むと題して「慶長記」を学びました。「慶長記」は家康の侍医であった板坂朴斎が関ヶ原合戦前後に見聞きしたものをまとめたものとされ、家康の周辺の興味深い出来事が綴られている。...
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鎌倉と一の谷 その1

現在、NHK大河ドラマの関係で、鎌倉に関心が集まっている。鎌倉は当時「鎌倉城」とも呼ばれ、城と認識されていた。もちろん、鎌倉内に城などない。頼朝の屋敷も鎌倉幕府のあった場所も城といえるような作りではなかったろう。それでは、なぜ、鎌倉は「鎌倉...
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佐和山の思い出12

佐和山城はかつて城内に寺や坊が同居していた、いわば宗教的バリアによって守られた聖なる空間に築かれた城であった。それを破壊するとなると、次の城はそれ以上の霊的な空間に築く必要があった。聖地彦根寺の端座する彦根山はそれにふさわしい場所であったと...
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佐和山の思い出11

佐和山城はなぜあれほど徹底的に破壊されなければならなかったのか。おそらくあれほどの破城は類を見ないであろう。ただ、佐和山城は関ヶ原合戦後すぐに破壊されたわけではなく、戦後、破損された建物は修理され、しばらくは井伊直政と重臣たちが佐和山を居城...
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佐和山の思い出10

佐和山の山頂周辺、つまり本丸があったところ周辺にはわずかであるが石垣の残石、石垣に組み込まれていたであろう巨石、鏡石を見ることができる。さらには、その辺りを注意深く歩くと瓦片も落ちていることがある。私は本丸南の直下、多分この辺りは本丸へ入る...
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佐和山の思い出9

佐和山城は中世の山城をベースに主要な部分を近世城郭にしたものと考えられていますが、彦根城築城にあたって凄まじい破城を受けたことで、高石垣が消滅し、土の城になってしまいました。そこから、一見すると中世の山城に戻ったような印象があります。事実、...
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新年にあたって

いよいよ新しい年、2022年がやってきました。今年も何とか体に気を付けて、研究に、執筆に、講座に、講演に頑張りたいと思います。また、「義に生きたもう一人の武将石田三成」の発刊から10年以上も経過し、新たな史料が出たり、関ヶ原の現地調査を再度...