2023-08

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宣教師の見た秀吉⑥

北条征伐と九州征伐の実態 天正18年(1590)秀吉は北条征伐に踏み切ったが、フロイスは北条の城(小田原城)には十分な貯えと兵力があり、そうやすやすと陥落するはずはないとの思いをもっていた。 一方、秀吉は二十万の兵力を動員したものの、遠...
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宣教師の見た秀吉⑤

秀吉の暗部 関白となった秀吉はおのれの出自を知る者が縁者を名乗ることを許さなかったようである。 「ある日、一人の若者が豪華な衣装をまとった二、三十名の武士を従えて、関白の住む大坂に現れた。若者は伊勢の国から来た者だが、関白の実の兄弟だと...
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宣教師の見た秀吉④

天正14年(1586)五月、宣教師コエリョと四名の司祭、修道士ら三十名は大坂城に秀吉を訪問した。 そのときの模様を次のように記している。 「やがて関白は自席から立ち上がり、コエリョのすぐ近くまできて座ったが、両人の間には畳半分ほどの隔た...
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宣教師の見た秀吉③

大坂城について 「その城郭は、厳密に言えば、五つの天守から成っていた。すなわち、その各々は互いに区別され、離れており、内部に多くの屋敷を有するはなはだ高く豪壮な諸城である。それらのうち最も主要な城(本丸)に秀吉が住んでおり、その女たちも同...
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宣教師の見た秀吉②

フロイスは秀吉が信長の天下を簒奪したことについて「がぜん過去の仮面を捨て、以後は信長のことには何ら構わぬのみか、為しえること万事において信長を凌ぎ、彼より秀でた人物になろうと不断の努力をした。彼は安土山にいた信長の孫にあたる少年(三法師)を...
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宣教師の見た秀吉①

「彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には六本の指があった。眼が飛び出ており、シナ人のように鬚が少なかった。男児にも女児にも恵まれず、抜け目なき策略家であった。彼は自らの権力、領地、財産が順調に増していくにつれ、それとは比べ物にな...
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関ケ原合戦直前の家康⑤

家康は会津征伐のため、6月16日に兵を率いて大坂を発ったが、「リーフデ号」にも堺を出帆させ、相模の浦賀まで渡航させた。浦賀に着くころには、家康はすでに江戸に入っていた。 この浦賀への移動の理由は船に搭載されていた武器を会津討伐に使うためで...
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関ケ原合戦直前の家康④

このとき、家康は豊臣政権大老筆頭として、大坂城にあって秀頼を補佐し、天下の政務を執っていた。この事件は上杉征伐の直前であるが、家康の頭の中は、当面の上杉攻めに加えて、これからいかに日本の舵取りを行っていくかという責任感にあふれていたといえる...
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関ケ原合戦直前の家康③

家康は宣教師の布教活動とスペイン・ポルトガルの帝国主義が一体となって繰り広げられているという事実を確認することが出来た。 これに危険を感じたポルトガルのイエズス会宣教師たちは「彼らを処刑すれば、オランダ・イギリスの海賊は恐れて日本に来ない...
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関ケ原合戦直前の家康③

二人は「貿易を通じてアジアのすべての君主と友好関係を築くことを望んでいる、日本にはない品物をイギリスからもたらし、イギリスにはないものを日本で購入したい」と述べたが、それは、ポルトガル以外にも対外貿易を望んでいた家康にとって満足のいく回答で...
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