歴史研究家 三池純正の公式ブログです。
Blog
  • HOME »
  • Blog »
  • ブログ

ブログ

佐和山城下「聞書」の謎11

長浜は秀吉が織田信長から初めて大名に取り立てられた記念すべき地で、長浜城も秀吉が最初に築いた城である。 ただ、長浜城そのものはその後山内一豊、内藤信成と城主が代わり、そのつど、城は修築され秀吉時代の姿を変えていった可能性 …

佐和山城下「聞書」の謎10

大津城はかつての近江守護京極氏の流れを受け継ぐ京極高次の居城で、高次の妻のはつは豊臣秀頼の生母淀殿の姉、高次の姉も秀吉の側室になるなど高次と秀吉との関係は深いものがあった。 しかし、関が原合戦時、高次は家康方についたため …

佐和山城下「聞書」の謎9

彦根城は慶長九年(一六〇四)から築城工事が開始された。 城は、伊勢桑名の本多氏、伊賀上野の筒井氏、若狭小浜の京極氏、越前福井の結城氏ら近江国周辺の七ヶ国の大名が動員される、いわゆる天下普請で行われ、幕府からも三名の奉行が …

佐和山城下「聞書」の謎8

直政はこの築城計画が実行される前に、関が原で受けた鉄砲疵と持病の悪化で、佐和山入部の翌年の慶長七年(一六〇二)に亡くなった。 直政の後は、嫡子の直継が継いだが、まだ幼少であったため、家老の木俣土佐が慶長八年(一六〇三)伏 …

佐和山城下「聞書」の謎7

こうして、井伊氏は直政の代で初めて徳川家に仕えたわけだが、家康は直政の力量を高く評価し、他の譜代の家臣以上に重用され、全面的な信頼を置いた。 そして、直政をはじめ井伊家はこの恩義にこたえるべく忠義を尽くして命がけで家康の …

佐和山城下「聞き書き」の謎6

井伊家の歴史を記した『井伊年譜』によれば、佐和山は西国や中国の押さえとして、また京にも近かったために、家康は重臣で信頼の厚い井伊直政をここに配置したのだとされている。 さらに、『井伊年譜』は、家康が西国九州や中国地方の人 …

佐和山城下「聞書」の謎5

慶長六年(一六〇一)彦根井伊家の祖、井伊直政は家康より石田三成の旧領の内十五万石と関東上野国(群馬県)で三万石、計十八万石を宛行われ、関東上野高崎城から佐和山城に入った。 佐和山城は当時、関が原合戦で落城しており、山頂に …

佐和山城下「聞き書き」の謎4

しかし、井伊家はどうしてそこまでして石田三成の痕跡を消そうとしたのであろうか。 井伊家は徳川家康が最も信頼する家臣の一人であり、初代直政は徳川四天王の一人に上げられるほどの重臣である。 この直政は関ケ原合戦では、石田三成 …

佐和山城下「聞書」の謎3

明けましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いいたします。 今年もつれづれに体の続く限り、語っていきたいと思います。 さて、昨年末から述べてきた「聞書」についてですが、「聞書」は何らかの原本をもとにして写本として …

佐和山城下「聞書」の謎2

「聞書」というのは、まさに、古くから伝わっていた「言い伝え」などをまとめたものであるが、それが今日までたくさん残されていたということは、それをどうしても後世に伝えたい、どうしても語り残しておきたいという、民衆のエネルギー …

1 2 3 35 »

カテゴリー

PAGETOP
Copyright © 三池純正公式ブログ All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.