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近年の関ヶ原

早いもので、『敗者から見た関ヶ原合戦』を世に出してもう16年が経ってしまった。思えば、現地調査、フィールド・ワークでよくあそこまで書いたものだと自分で感心している。当時はまだ今のような確実な文書も少なく、手探りで一気に書いてしまった感がある...
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先祖の血

電車に乗ると、つい優先席を避けてしまう。十分優先席に座れる年齢になったのだが、まだ、若いつもりなのだろうか。それにしては、足腰が弱って来た感があり、年齢は決して嘘をつかない。昨年、先祖の三池氏の足跡を追って福岡まで旅をした。年齢的にも、これ...
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歴史作家

最近、肩書を「歴史作家」に統一しました。私はもともと歴史の背景に常に人間を見続けてきたと思っており、それはこれからも変わることはないと思うからです。それは単に歴史的事実のみを追いかけるという学問的なものではなく、あくまでも作家という領域に属...
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今年最後の歴史講座

今週26日(火)、今年最後の「歴史講座」を行いました。今回は「どうする家康 総集編」と題して、受講者の皆様からの質問や疑問を中心に賑やかに楽しく行いました。一応、今回は「石田三成の実像とは」という内容を予定しておりましたが、「どうする家康」...
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ポスト秀吉⑲

奉行たちとの確執はそれだけではなかった。文禄4年(1595)、正月、朝鮮への出兵はすでに三年を経ようとしていた。日本軍は、果敢に進軍し、一時は朝鮮の首都漢城(現在のソウル)を確保する勢いであったが、朝鮮の義兵によって兵糧の輸送路を経たれ、寒...
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ポスト秀吉⑱

このとき、実戦の現場でこれまで長期間戦ってきた黒田長政、蜂須賀家政、加藤清正らと秀吉の命を受けてただ一度やってきただけの軍監との間には朝鮮での戦をめぐっての温度差、認識の差があった。軍監福原長堯もこの理由を現場の諸将に質し、彼らと話し合えば...
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ポスト秀吉⑰

このときの日本軍の軍監は三成の娘婿の福原長堯(ながたか)らであった。福原長堯らは、この日本軍の壮絶な勝利を見ながらも、日本軍が連合軍を追撃せず、結果として彼らを討ち逃がしてしまったことを帰国後、上洛して秀吉に報告した。この報告を聞いた秀吉は...
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ポスト秀吉⑯

先に、奉行たちは家康と不和になったとき、輝元に奉行衆との連携を呼びかけた起請文を輝元に提出させているが、奉行たちは家康に対抗する勢力として、秀吉の裁定を曲げてまでも中国120万石の毛利を何としても陣営に取り込みたかった。家康に対抗するには、...
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ポスト秀吉⑮

、家康を大老から除く企てに失敗した奉行たちは逆に厳しい状況に追い込まれることになり、私婚は不問に付され、奉行らは謝罪することになった。家康の行った私婚の企みは、秀吉の遺言に背くアンフェアな行為であった。そこには、露骨に有力な豊臣大名を自分の...
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ポスト秀吉⑭

秀吉死後、家康は六男忠輝に伊達政宗の長女を娶り、福島正則の子息正之と蜂須賀家政の子息豊雄に家康の長女を嫁がせるとの約束を行った。これは、秀吉の存命中である文禄四年(一五九五)に発せられ誓書までも取り交わされていた、大名間の私婚の禁止令への明...