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近江佐和山城攻め①

家康は関ヶ原合戦が終わると、大谷刑部の陣所に宿泊し、翌16日、関ヶ原を発ったが、破壊された八幡神社修復費として三千貫文を与え、領主竹中重門に対し、戦死した兵たちのために首塚を作り、神社の再建、その地の住民の鎮撫を命じた。 その日、大垣城二...
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歴史講演会のお知らせ

第17回 連続歴史講演会 滝山城 続日本100名城 選定5周年記念 「戦国から近世~馬出から何が見えるか~」 講師 三 池 純 正(戦国史研究家・NHK学園オープンスクール講師) 「滝山城からくり探索~馬出の妙技~」 講師 中 田 ...
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関ケ原合戦翌日の風景

首実験 『慶長軍記』 「合戦終わって、家康公は甲冑を付け、藤川台に床几にお座りになった。諸将参上し、種々の働きを申し上げる。福島正則曰く、本多忠勝人数扱い、・・・存外の外弱敵に候。そのとき、松平忠吉、直政の手を肩にかけ参上した。家康公は...
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関ケ原、島津隊の敵前逃走

九月十五日、関ヶ原での勝利が決まったころ、戦場から大坂方と思われる兵の一団が徳川軍の中を突破して戦場を離脱しようとする事件が起きていた。 彼らは、幟や旗指物を捨て、徳川軍と同化して、ひたすら進んでいった。 『吉川家什書』 「島津な...
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関ケ原での裏切り

『吉川家什書』 「昨日十五日、内府様、直に山中へ押し寄せられ、合戦に及び、即時討ち果たされ候。昨日、江州に至り、二手に分かれて乱入なされ候。(中略)青野原に至り、悉く先陣衆打出、最前陣所へは内府入り移るべく候。然るところ、筑中(小早川秀秋...
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関ケ原合戦直後の家康

家康は、慶長五年(1600)九月十五日、大坂方と美濃関ヶ原において戦い勝利したが、それは第一ラウンドでの勝利にしか過ぎなかった。 関ヶ原から中山道を進み大坂に向かうには、途中、大坂方の一大拠点近江佐和山城が前に立ちはだかり、大坂城にはいま...
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三つの史料から見た小田原合戦 『日本史』秀吉、小田原合戦もう一つの野望

しかし、関白は運命にも所業にもきわめて恵まれており、また、非常に慎重で、とりわけ知恵と策略によって取引きする術に長けていたので、これらの諸城は孤立してしまい、中でも、北条殿が家臣たちから取っていた人質の大半がいた幾つかの城は陥落していった。...
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三つの史料から見た小田原合戦 『日本史』 苦戦する豊臣軍

『日本史』 秀吉は北条殿の国へ入り、幾つもの地点から戦闘を開始した。 北条殿は若干の城を守り抜くことを決意し、関白の軍勢の包囲と遭遇に備えた。 というのは、彼らにとって自ら出撃して野において関白と一戦を交えることは適当でないと思えたか...
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三つの史料から見た小田原合戦 『川角太閤記』北条攻め

『川角太閤記』 箱根山中城の攻め手は三好孫七郎(秀次)様、お供は中村一氏、田中吉政、一柳末直。 韮山の城は長岡越中(細川忠興)である。 家康様は、箱根より左へ付かれて、しん山の端を抜けられ、小田原を廻り、そうせん寺の原へ出られ、それよ...
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三つの史料から見た小田原合戦 『太閤さま軍記のうち』 小田原北条氏の滅亡

『太閤さま軍記のうち』 小田原北条氏の滅亡 三月二十九日、関白秀吉公は箱根山へ軍勢を入れられた。 中村源兵衛が法螺貝を吹き立てると、先陣は中納言秀次の軍勢がどっと山中の城堀へ飛び入り、先を争い、塀・柵を引き崩し、一団になって攻め入った...
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