2020-10

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古墳と城

青山学院大学名誉教授であられた故櫻井成廣先生は日本の城郭研究の草分けの一人であった。 私は、当時、先生が執筆された幻の豊臣大坂城の本がなかなか手に入らず、失礼とは思いながら、思い余ってご自宅にお電話をし、本を譲っていただいたことがあった。...
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豊後大友館

10月度のNHK学園歴史講座では、大分の「大友宗麟顕彰会」の事務局長様から送っていただいた大友館発掘、復元された庭園の資料を受講者の皆様に配布し、大友館発掘に至ったエピソードや館の構造について初めに学びました。 私が大分市を訪ねた二年半前...
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10月度NHK学園

10月度NHK学園は「城から見る戦国から近世1」と題して、城から戦国時代がどう見えるかについて受講生の皆様と学ぶ予定です。 城絵図などを使って、城の変遷を探ったり、私自身が自分の足で歩いた数多くの戦国の城の構造やエピソードをお話ししたいと...
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真田家と六文銭30

『真田御武功記』という書には、海野幸義が戦死したとき幸隆は自らも討死を覚悟していたが、そこに白鳥明神の使いと称する神子が現れて鉾を逆さに持ち、「この鉾を持って敵陣を破り、ここを逃れて時を待ちなさい。そのうち、必ず本望を達するときが来ます。」...
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真田家と六文銭29

そこから、真田幸隆、そしてそれ以降の真田氏は海野を詐称したのではなく、海野氏嫡流という立場を明確にしたものともいえる。 真田氏は幸隆はもちろんその子の昌幸、さらには孫の信之とまったく断絶することなく自らが海野氏であることに大きな誇りをもち...
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真田家と六文銭28

以上のことから、幸隆は海野棟綱の子、もしくは棟綱の娘の子というような海野氏の嫡流もしくはそれに近い血を引く人物であったのではないかということが推理できよう。 先にも述べたが、『加沢記』によると、関東管領上杉憲政は真田幸隆との対面に際して、...
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真田家と六文銭27

幸隆の出自を考える上で、もう一つ気になるのは、幸隆の若いときの名乗りである。 幸隆は永禄二年(一五五九)ころ主君信玄の出家に伴って自らも頭を剃って入道となり「真田一徳斎」となってからその晩年に「幸隆」と名乗ったとされている。 つまり、「...
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真田家と六文銭26

その真田氏に海野家嫡流の確かな血筋の幸隆が入ってきたことにより、それ以前の真田氏に関することが消えてしまった。 それを端的に表しているのが「日向畑遺跡」なのではなかろうか。 幸隆にとっての先祖とはあくまでも海野本家であり、「日向畑遺跡」...
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真田家と六文銭25

これらの資料はどれも幸隆が海野から真田の地にきて初めて真田を名乗ったとしているが、幸隆は海野棟綱の嫡男ではなく次男とされている。 そこから、海野家を出て他家、この場合は真田家を継ぐことは大いに考えられるのだが、どれも幸隆が初めて真田を名乗...
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真田家と六文銭24

真田屋敷跡から出土している中国銭は最も古いものが唐の時代(六一八~九〇七)の開元通宝、最も新しいものが明の時代一四〇八年から鋳造が始まった永楽通宝であったことから、この中国銭が埋められたのは、一四〇八年以降ということになる。 全国で埋蔵銭...
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