2020-04

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上杉攻め前夜

慶長4年(1599)閏3月、石田三成襲撃事件が福島正則、黒田長政、浅野幸長ら豊臣系の大名七将によって引き起こされた。 この事件は、秀吉亡き後の豊臣政権内に衝撃を走らせた。 彼ら七将は日頃から、朝鮮出兵での論功行賞などをはじめとする三成の...
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徳川VS上杉の戦いはパフォーマンスか?

ステイホームに徹する毎日ですが、家にいても何か少しでも楽しめるものがあればいいですね。 私などは、お城のペーパークラフトを作ったりしていますが、元来が不器用のため、不格好なお城しかできず、完成品を遠くから見るようにして楽しんでおります。 ...
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小西行長の逃走路

関ケ原での戦は、彦坂元正・石川安通連署書状に「筑前中納言殿(小早川秀秋)・わき坂中書(脇坂安治)・小河土佐父子(小川佑忠・佑滋)、此四人御味方申し、うらきり(裏切り)を致し候、則敵敗軍仕り」とあるように、小早川、脇坂、小川の裏切りによって一...
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黒田長政のもう一つの戦い

『黒田家譜』によれば、「長政は竹中丹後守当所の案内を知れる人なれば、是と同道し、他将に離れて岩手山の末野を押し給う。是間道を経て伊吹山の麓、相川の北に出、直に関ヶ原に向かいて石田が陣の横合にかからんとなり」とあり、黒田長政は他の諸将と異なり...
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家康の決断

もし、この軍勢が中山道の背後から徳川軍を攻めたとしたら、徳川軍は挟み撃ちに会い、苦戦を強いられることは必至であった。 しかし、先のブログで述べたように、最終的には、輝元の指示を受けていた安国寺の現場における判断、すなわち、大坂方不利の状況...
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三成の思惑を打ち砕こうとした家康

このブログでも紹介した宇喜多秀家陣の防塁、玉の城山も三成らによって築かれたそれら要害の一つであり、それ以外にも『敗者から見た関ケ原合戦』で述べた北国街道を塞ぐ長い土塁なども存在し、松尾山から三成の笹尾山に至るまでが中山道、北国街道を封鎖する...
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短期決戦を考えていなかった三成

長盛と家康が通じているという噂は確かに当時あったものと思われるが、その事情で輝元が出陣を取りやめたとは思えない。 だが、ここで重要なことは、輝元出陣の噂があったということであろう。 それが、事前に家康の耳に入っていたとすると、これが家康...
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西軍移動す

彦坂元正・石川安通連署書状に「十四日之夜五ッ時分ニ大柿外曲輪を焼払、関か原へ一所ニ打寄候つる」とあり、それまで大垣城に籠っていた大坂方は城下に火をつけて、14日深夜、関ヶ原への移動を開始した。 だが、大坂方はメインの中山道ではなく、長曽我...
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関ケ原の布陣は主要街道の封鎖

『黒田家譜』には、「海道をさしふさぎ、西国・北国の往来を打ちとどめ」とあり、三成らの布陣はまさに、中山道、北國街道の二つの主要街道を封鎖するための布陣と認識されていたことが分かる。 事実、関ケ原現地には、その二つの街道を封鎖したであろう遺...
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杭瀬川合戦の意味

中村隊の隣で、これを見ていた有馬豊氏の隊はすぐに救援に向かったが、今度は宇喜多秀家の鉄砲隊に迎撃され打ち負かされてしまった。 この小さな前哨戦は、敗戦続きで意気消沈している大坂方の士気を挙げるために島左近らが三成に申し出て行われたとされる...
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