2022-10

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 10.30歴史講演会「馬出しから何が見えるか」より①

『甲陽軍鑑』巻九で城の馬出を論じた山本勘助の言葉に「馬だしと申すものは、城とりのまなこにて御座候。子細は、城をまかれて候て、城内よりそないをいだすに、あぶなげもなく、また、せめてになり申してとりよせにくく候。」とある。 武田氏の城作りは、...
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福島正則への論功行賞と薩摩島津攻めの延期

『慶長記』 「今度、忠節によって、福島殿へ安芸・備後両国を遣わされた。その使いには本多忠勝、井伊直政が遣わされた。もし、両国を遣わされたことを不足に思ったらと両人は気を使いながら様子を見たが、正則は思いのほか機嫌がよく、過分に存じ奉る...
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毛利の領地削減

十月三日、吉川広家は黒田長政を通じ、本家を潰して自分が領地をいただくわけにはいかないから、領地は是非とも輝元へ賜りたいと嘆願した。長政はこれに返書を送った。 「今度のことは、とにもかくにも、井伊直政・福島正則・私の三人にお任せいただきたい...
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家康の大坂城入城と毛利への仕置き。

九月二十五日、家康は大津を発ち、二十六日山城淀に到着し、二十七日大坂城に入った。 他の説では、二十七日大津を出、淀に着き、二十八日大坂西の丸に入り給う。秀忠君も二十七日、大坂へ入城されたとある。 『慶長記』 「二十六日午時(12時...
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毛利輝元との大坂城退城交渉

大坂城にはいまだ秀頼を擁して毛利輝元が西ノ丸を占拠していた。 家康としては、主君秀頼のいる大坂城を攻められるはずはなく、かといって、そのままにすれば、関ヶ原で無傷の立花宗茂や毛利秀元らが入城して、再びの戦となる可能性もある。 家康として...
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石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の捕縛

『慶長記』 「石田治部少輔・小西摂津守・安国寺三人首金をはめ、乗り物に乗せ、柴田左近・松平淡路守奉行手前の者ばかりにて外に人は仰せ付けられず候」 「備前中納言殿生死しれず。田中筑後守(吉政)・西尾豊後守(光教)に仰せ付けられ、伊吹山...
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家康重臣伊奈図書の切腹

『関ヶ原御一戦記』 十九日家康、大津着陣。京に関東勢が洛中に乱入するという噂が流れているので、皆が迷惑しているという報告が入り、家康は伊奈図書を三条の橋へ遣わせ、矢来・木戸を作らせ、番所に兵士を置き、洛中へ入り込む者どもを改めさせた。 ...
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大津城総攻撃

『慶長記』 「大津の城へ渡御、城中家共は、敵攻め火矢の用心に、屋根をまくっていたので、南の門脇の長屋に御座成られた。・・・大津の町は焼き払われ、小屋もなし、苅田を諸人が行ったので、瀬田の近辺より、三井寺辺りまで田を刈り取り、この節は諸大名...
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近江佐和山城攻め②

『脇坂伝記』 「江州佐和山の城には三成の舎兄石田杢頭(正澄)という者が立て籠もっており、それを追伐するよう命令が下され、その日、柏原の宿に陣を取る。開けて16日に佐和山の城へ押し寄せた。十七日、脇坂父子は城の南大手の口より押し入り、攻めた...
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近江佐和山城攻め①

家康は関ヶ原合戦が終わると、大谷刑部の陣所に宿泊し、翌16日、関ヶ原を発ったが、破壊された八幡神社修復費として三千貫文を与え、領主竹中重門に対し、戦死した兵たちのために首塚を作り、神社の再建、その地の住民の鎮撫を命じた。 その日、大垣城二...
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