2019-11

ブログ

 海津城外郭の土居は大林寺の墓地の中

そういえば、『長野県町村誌』に「今の大林寺と大英寺の間に、少しのかき上の様成跡あり」とあった。何と、海津城の外郭の土居もまだ残っていたのだ!顔はいかついが、どこまで親切な住職さんなのであろうか。このような人に旅先で会うとほっとするものである...
ブログ

今も残る海津城の外郭の堀跡

そこで、私は、この池が最近作られたものではないということを確かめるために、寺の近所で聞き込みを行うことにした。  ちょうど、寺のそばに古い家屋の駄菓子屋さんがあったのでそこに入り、店番をしていたおばあちゃんに声をかけ話を聞いた。 お...
ブログ

大英寺住職が教えてくれた海津城外郭の堀

 『長野県町村誌』の「前海津城跡」の項によれば、「今の大林寺と大英寺の間に、少しのかき上の様成跡あり、今の城よりは東南に当たる、(中略)大英寺向通を総堀と云うなり。」とある。 「総堀」というのは、海津城外郭の堀のことである。 この記...
ブログ

海津城(8)

その後、信玄は海津城を川中島の一大拠点にするにあたって、城を大拡張しその中心を当時千曲川河畔の現在地に置いた。 完成した海津城は地蔵峠や北国街道を監視する意味からも、そこに外郭部を据える必要があった。 そのとき、軍事的な要塞香坂氏...
ブログ

海津城(7)

この二つの城の関係について『長野県町村誌』は清野氏の屋敷跡に海津城を築き高坂弾正に之を守らせたが、(現在地に)城を移すに及んでその古城の地を高坂の屋敷となし、そこを城の一つの郭としたため、「弾正郭」という名が残ったとしている。 つまり...
ブログ

海津城(6)

 この大英寺辺りは北国街道候可峠を越えた道が地蔵峠につながる戦略上極めて重要な位置にある。  ここに何らかの軍事施設を築いたとしても少しも不自然ではない。清野甚八郎の居館はただの日常生活の場というだけではなく、軍事的な要塞の意味もあるいは...
ブログ

海津城(5)

 『長野県町村誌』には、清野氏の総領の清野山城守は村上氏に従って越後に行ったものの、その舎弟の清野甚八郎は武田に降り、兄清野山城守の本領をそのまま安堵され清野から西条村に移り住んだという記述がある。  さらに清野甚八郎は西条村に移ってから...
ブログ

海津城(4)

 『長野県町村誌』によれば、清野氏は海津城西の鞍骨山頂に築かれていた鞍骨城を本拠としていたが、武田氏により鞍骨城を落とされ天文22年村上義清とともに越後に走ったとされている。  その時点で鞍骨城は武田氏の手に移り、清野氏の居館も武田氏のも...
ブログ

海津城(3)

 『更科埴科郡地方誌』は香坂氏が築いた海津城の場所を宝永三年(一七〇六)に完成した『つちくれ鏡』という書の「清野屋敷と云うは今大蓮院殿の霊屋と大林寺の間なりしと云なり」との文を根拠にして現在松代町松代にある大英寺と大林寺の中間辺りとしている...
ブログ

海津城(2)

これより少し前の同年六月一五日の香坂筑前守への書状にも「在城」に対する奉公として、更科郡横田に三百貫の地を宛外うとあり、この城も海津城だと考えられている。 この香坂筑前守は『更科埴科郡地方誌』によれば、海津城築城にかかわった人物とされてお...
タイトルとURLをコピーしました