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真田の里を歩く12

そのことから、何者かがこの墓石を「故意に破壊したか、あるいは隠滅をしたとも考えられる」(『真田町誌』)という結論に達した。この墳墓は検出された石塔群の年代や同時に出土した古銭や土器、石皿、石臼などから真田幸隆以前の真田氏のもので、南北朝期の...
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真田の里を歩く11

この平場にはかつて真田家の菩提所であったとされる「松尾山常福院」という寺があったという。しかし、現在は何もなく、古い阿弥陀堂が隅にぽつんと一つ建っているだけである。ここは長い間畑になっていたが、昭和四十六年(一九七一)、その畑の耕作の折り、...
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真田の里を歩く10

大雨、洪水の被害がひどくなっております。私が少年時代を過ごした福岡県大牟田市でも、大きな被害が出ているようで、九州、中国にこれ以上大雨が降らないこと、被害が出ないことをひたすら祈るばかりです。大牟田は私の先祖が城を築き、統治したところで、一...
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真田の里を歩く9

先にも述べたが、昭和二十二年ころに真田館跡から約二千枚にもわたる中国銭の永楽通宝が出土している。また、そこには現在も矢竹の茂みが残っているが、矢竹の茂みはこの近辺では館周辺だけに残されているという。矢竹は文字通り矢の材料となる竹であり、武士...
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真田の里を歩く8

『上田市誌』に「字真田」の古地図である「小県洗馬組兜石郷真田村絵図」という絵図が掲載されていることは先に述べたが、そこからは、山家神社西の門前には上州(群馬県)と信州(長野県)を結ぶ上州道が通っていたことが分かる。「字真田」は古くから交通の...
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真田の里を歩く7

真田氏といえば、大坂の陣で真田幸村のもとで活躍する「猿飛佐助」や「霧隠才蔵」などの忍者が有名だが、この話は戦前「立川文庫」が『真田十勇士』の中で作り上げたフィクションであることはいうまでもない。しかし、実際の真田氏は出浦対馬守、富田郷佐衛門...
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真田の里を歩く6

山家神社は、当時、修験者たちの拠点であった。修験者、山伏といえば高下駄を履いて、杖を武器にして、木から木へ、岩から岩へと飛び移る「天狗」に代表されるように、険しい岩山などで厳しい修行を積み、強靭な肉体をもち、棒術や刀術なんどの武術に長けてい...
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真田の里を歩く5

『上田市誌』には、この「字真田」の古い地図が掲載されている。(『上田市誌』より)それをみると、山家神社門前ともいうべき「真田」には上州(群馬県)と信州(長野県)を結ぶ上州道が通っていたことが分かる。「真田」という場所は古くから交通の要所であ...
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真田の里を歩く4

三つの館跡の中で最も古く、真田氏の発祥の地と考えられているのが「字真田」という地名の近くにある館跡である。地名からも、そこが真田氏と大きな深い関係にあった場所に違いない。江戸時代中期元禄年間に著された『つちくれ鑑』という書物によれば、その「...
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真田の里を歩く3

「真田氏歴史博物館」の受付をされていた婦人の話によると、今でもはっきりとした館跡が今も残っているのは真田町本原にある「御屋敷」と呼ばれる場所であるという。その場所を聞くと、そこはここ「真田氏歴史博物館」から坂を降りたすぐのところにあるという...