2020-02

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立派な虎口をもつ松尾山城の意味

松尾山城本丸の周縁はすべて土塁で囲まれ、本丸の西にある虎口(入口)には櫓を備えたと思われる門の跡まで残っている。しかも、その門跡は『桝形(ますがた)虎口(こぐち)』で本丸の大きさから比べると比率的にかなり大きい。 敵が本丸に攻めてきた場合...
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関ケ原方面を警戒している松尾山城

誰が何のためにこの松尾山に城を築いたのか。 そのヒントの一つは、この城が明らかに関ヶ原方面を警戒した作りになっているということであろう。 松尾山城は北の方角、つまり関ヶ原方面に防御を集中させていることが遺構を歩けばすぐに分かる。 明ら...
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松尾山城は合戦に備えて築かれた新城?

小早川軍は関ヶ原合戦の前日の十四日に松尾山に入っていることから、この山城を築けるはずはない。 むしろ、小早川の行為は西軍にとって重要な特別の場所であったこの城をジャックしたという方が正しいのかもしれない。 山に立っていた看板を見ると、も...
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松尾山は山全体が山城

Fさんが軽トラックでナビをしてくれたおかげで、松尾山には迷うことなく最短距離で行くことができた。しかし、よく聞いてみると、Fさんも松尾山にはまだ登ったことがないという。そこで、二人で登ってみようということになった。 松尾山の北山麓、つまり...
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関ケ原松尾山への登山

関ヶ原でもう一つ興味深いのは関ヶ原の南にある松尾山である。 松尾山は標高二百九十三メートル、それほど高い山ではない。 しかし、この山は天下分け目の関ヶ原合戦の勝敗を決めたメモリアルな歴史をもっている。 関ヶ原合戦最後の土壇場での勝敗を...
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最後まで去就に迷った南宮山毛利軍

安国寺には、もし、大坂方に有利な展開になれば、不戦を決め込む吉川の部隊を蹴散らして、本戦に参加する、その選択肢も残されていたはずである。 南宮山の毛利勢の判断も最後まで揺れ動いていた。 現場では例え密約といえども、情勢次第では何の役も立...
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南宮山毛利軍不戦の理由

光成氏は毛利輝元と吉川広家が疎遠な関係にあることから、密約については、輝元が広家に指示した可能性は低く、一方で、出陣した毛利勢に対する輝元の指示は恵瓊と福原広俊を通じて伝えられていたとしている。(『毛利輝元』) そうであるなら、表面上は密...
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毛利輝元の命を受けていた安国寺恵瓊

光成準治氏は、その著『吉川広家』において、恵瓊が毛利勢を率い、南宮山山頂から下る最前列に布陣していることから、毛利勢の先陣は吉川ではなく、安国寺であり、そこから、毛利勢の不戦には安国寺恵瓊の黙示的了承があったとしている。 南宮山布陣後、安...
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吉川単独の密約

吉川広家の書状には「安国寺陣足がかりよく候」とあり、ここから、安国寺恵瓊の隊が南宮山からの最前列に配されていたことが推察される。 また、それは、現地での伝承と一致する。 安国寺恵瓊が率いている兵は自らの兵ではなく、毛利家の兵であったとさ...
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吉川広家布陣への疑問

吉川へは、黒田長政と福島正則からもその内容を保証する起請文が提出されている。 二重に保証された起請文は吉川に大きな安心感を与えたに違いない。 しかし、これは合戦前日の十四日に突然出てきた話ではなく、吉川が井伊直政や黒田長政と事前に何度も...
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