2022-11

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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑥

信玄の信長への家康抑え込みは成功せず、さらには足利義昭の仲介で一時成立した謙信との和睦も崩壊した。 家康はこれを機に、謙信と正式に同盟を結んで信玄との関係を完全に破棄することを宣言した。 これを知った信玄は謙信の背後を脅かすため、石山本...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑤

信長の態度は変わらず、そのため、この信玄の作戦は成功せず、さらには足利義昭の仲介で一時成立した謙信との和睦も崩壊し、家康はこれを機に、謙信、さらには北条と結んで信玄との関係を完全に破棄する立場を取った。 ここに、家康は完全に信玄の敵となっ...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻④

上記の図は、武田氏が駿河の港湾清水に築いた江尻城の図である。 武田は駿河に侵攻すると拠点城郭を築いたが、その一つが江尻城で城将は信玄の重臣山形昌景である。 丸馬出を効果的に使った武田氏では珍しい海城で、水軍を意識したものであった。 ...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻③

武田・徳川同盟は国分け協定を明確に行わず、切り取り次第ということにしたため、次第に双方の主張が異なる事態となり、やがて、両者は敵対することになる。 永禄11年(1568)、信玄は7月上杉謙信の拠点北信濃飯山を攻め、加賀越中一向一揆に越後を...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻②

信玄は重臣で飯富兵部の実弟山縣昌景からの情報で義信の造反をいち早く察知すると、義信を甲斐東光寺に幽閉、義信に付いた家臣たちを処罰することで、事件を未然に防ぎ、義信の妻を今川に送り返し、同盟の破棄を通告した。 義信は失意の内に幽閉生活を送り...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻①

永禄3年(1560)武田、北条の同盟者で駿河・遠江・三河を領する戦国大名今川義元が尾張の桶狭間で尾張を統一したばかりの新興大名織田信長に討たれるという事件が起きた。 義元の後継者氏真は、敗戦後の混乱を乗り越えようと、懸命な努力をしたが、三...
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10.30講演会から 川中島海津城と長沼城

武田信玄が川中島の拠点として築いた海津城は今は残っておりませんが、その縄張りは真田氏によって海津城として濃厚に受け継がれています。以下は松代城の絵図です。 城の東と南の虎口に設けられた丸馬出は武田氏の縄張りそのもので、本丸の石垣を...
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10・30講演会より③ 川中島城塞群

一方、武田側から見た犀川の対岸、善光寺の背後には上杉方と思われる山城が善光寺を守るように配置されている。 これらの城を実際に訪れると、海津城の背後を守る武田の城と違ってすべて新たに築かれたものであることが分かる。 謙信は、ここに新た...
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10.30講演会より②

以下の図は山梨甲府の武田氏館の初期のものとされている図である。 後に甲斐を領地とした徳川氏のもとで改修されたことから、現在は随分様変わりしているが、当初は二つの虎口前面に丸馬出しをもった構造であったとされている。 (この武田氏館図...
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