2021-01

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佐和山城下「聞書」の謎17

『淡海落穂集』という聞書には、「曾秋坊清涼院、金剛坊宗徳寺、完徳坊円寿院、定家坊、観音坊以上七ヶ寺は佐和山山中よりこの辺りにあった霊場である。どれも、昔から天台宗でこの寺院を社宮士といった」とある。 さらには、佐和山と湖との間には後に彦根...
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佐和山城下「聞書」の謎16

近年、井伊家所蔵の文書から、三枚の佐和山城絵図が発見された。 いったい、なぜ、井伊家が自らが破壊した佐和山城の絵図を所蔵していたのか、その理由はここでは判然としないが、この三枚の絵図については彦根城博物館学芸員の谷口徹氏が『彦根城博物館研...
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佐和山城下「聞書」の謎15

こうして、石田三成の居城佐和山城は井伊氏の手で地上から抹殺されていったが、それではなぜ井伊氏は次なる城の候補地を彦根山にしたのであろうか。 彦根山は当時有名な霊場として知られており、そこには、門甲寺、彦根寺、石上寺などの寺院が建てられてい...
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佐和山城下「聞書」の謎14

また、彦根城の建物には、大津城や長浜城からの移築の伝承はあるが、佐和山城からの移築に関しては全く伝承がない。 これも考えてみれば、不思議なことである。 佐和山城は彦根城に一番近く、さらには彦根城が完成するまでは井伊氏は佐和山城にいたわけ...
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佐和山城下「聞書」の謎13

しかし、佐和山城跡では、城の建物に葺かれていたと思われる瓦の破片が本丸跡や西の丸跡といった山頂部分でしか発見されていないことから、瓦をもった建物は山頂部分だけに限られ、その重量を支える石垣も山頂部分にしか築かれなかったとする見方もあり(中井...
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佐和山城下「聞書」の謎12

ただ、私が長浜城跡を訪れて不思議に感じたことは、城跡に、まだ、石垣の残石、それも結構大きな石で石垣に十分に使えそうな石がたくさん残っているということである。 さらには、城跡の発掘調査でも石垣の土台石である根石が何百メートルにもわたって発見...
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佐和山城下「聞書」の謎11

長浜は秀吉が織田信長から初めて大名に取り立てられた記念すべき地で、長浜城も秀吉が最初に築いた城である。 ただ、長浜城そのものはその後山内一豊、内藤信成と城主が代わり、そのつど、城は修築され秀吉時代の姿を変えていった可能性はある。 しかし...
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佐和山城下「聞書」の謎10

大津城はかつての近江守護京極氏の流れを受け継ぐ京極高次の居城で、高次の妻のはつは豊臣秀頼の生母淀殿の姉、高次の姉も秀吉の側室になるなど高次と秀吉との関係は深いものがあった。 しかし、関が原合戦時、高次は家康方についたため、大津城は西軍のタ...
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佐和山城下「聞書」の謎9

彦根城は慶長九年(一六〇四)から築城工事が開始された。 城は、伊勢桑名の本多氏、伊賀上野の筒井氏、若狭小浜の京極氏、越前福井の結城氏ら近江国周辺の七ヶ国の大名が動員される、いわゆる天下普請で行われ、幕府からも三名の奉行が派遣されるという、...
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佐和山城下「聞書」の謎8

直政はこの築城計画が実行される前に、関が原で受けた鉄砲疵と持病の悪化で、佐和山入部の翌年の慶長七年(一六〇二)に亡くなった。 直政の後は、嫡子の直継が継いだが、まだ幼少であったため、家老の木俣土佐が慶長八年(一六〇三)伏見城に赴き家康に謁...
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