2020-03

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垂井・関ケ原の領主 竹中重門

岐阜城総攻撃の前日8月22日付の井伊直政の書状には、岐阜城を落としたら、次は佐和山城へ移動することが話し合われたと述べられており、諸将の一致した認識は岐阜城の次は佐和山城への総攻撃であった。 岐阜城が落ち、徳川軍が佐和山城を次のターゲットと...
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徳川軍が押さえた菩提山城

徳川軍による岐阜城攻撃直前まで、菩提山城には大坂方の兵が入っていた可能性も否定はできない。 ただ、彼らはそのまま引き続いて菩提山に布陣することはなかった。 その理由は岐阜城が落城し、徳川軍がそこから大垣に近い岡山に陣を取ったため、大垣の防衛...
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大坂勢が入っていた?菩提山城

竹中重門はこれから一週間ほど後の9月3日に小田原に到着した家康に使者を送り、家康は竹中重門に犬山城明け渡しにおける忠節を賞する書状を送っている。 このとき、菩提山城の話が出たかどうかは分からないが、竹中重門が犬山城を出る25日前後には井伊直...
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竹中重門と菩提山城

菩提山城に入ることを想定されていた人物とはいったい誰だったのであろうか。 確実に言えることは、現在の大規模な菩提山城は竹中氏時代の城ではなく、大改修されたものであるということである。 あえて、推測をするなら、竹中時代の菩提山城は山頂とそこか...
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菩提山城は誰のために築かれた?

繰り返すと、本丸虎口の小さな角馬出、そして、本丸を囲む小さく浅い堀、それは本丸を特別な空間として、他の曲輪との間に差別化をはかっているのではなかろうか。 小さな角馬出は本丸虎口の儀礼的装飾であり、本丸周囲に掘られた小さな堀も本丸だけに特別に...
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不可解な菩提山城の馬出

一般的にいえば、「角馬出」は敵の攻撃から虎口を防御するために設けられる。 だが、菩提山城のものは曲輪の広さに対して規模が小さすぎる。 また、馬出の堀も狭く浅い。 とても軍事的な必要性から設けられたとは思えない。 本当に本丸虎口を実用的に防御...
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大軍の布陣が可能な菩提山城

最初の堀切の中から見える菩提山山頂部の本丸は実に雄大である。 本丸は十分な広さを有し、城壁となる山頂の斜面は垂直に切り立っている。 それを見ただけでも、寄せ手の軍勢は攻めることをためらうことであろう。 近年、山の木が切られて整備され、遺構が...
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菩提山城は優れた山城

徳川軍が岡山の普請にそれほど力を入れていないのは、すでに8月24日の時点で大規模陣城として利用できる菩提山城がすでに存在していたからではなかろうか。 徳川軍はいずれはそこに移り、大垣城と対峙することを前提に考えていたのかもしれない。 菩提山...
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改修され生まれ変わっていた菩提山城

菩提山城は、すでに、その時点で大改修が施され、大軍が収容できる規模になっていた。 菩提山城は一領主竹中氏のかつての小さな山城から大軍を収容できる大規模な陣城に生まれ変わっていたのである。 しかし、大きな疑問が残る。 それは、菩提山城をここま...
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謎を呼ぶ菩提山城

『竹中家譜』によると、重門は家督を継ぐと、菩提山から山麓の岩手館に居城を移し、天正16年(1586)に従五位下丹後守に任じられたとある。 これによれば、竹中重門は本拠を菩提山麓の岩手館とし、山城であった菩提山を廃したことが分かる。 ただ、菩...