上田城の金箔瓦5

仙石氏は埋められていた堀を掘り返し、要所に石垣を築くという新たな築城工事を始めた。
しかし、仙石氏が上田城に入った寛永三年(1626)という年は「武家諸法度」により城の築城が大きく制限されていた。
城はもはや軍事的な意味合いよりも、藩の政治を執る役所のような機能があればよかった。
ただ、藩主は武士であるゆえに、武士の象徴である城という形が必要なだけであった。
そこでは攻防を想定した複雑な縄張りの城やきらびやかな城を作ることはもってのほかであった。
さらには、上田城の再築の陣頭指揮に当たっていた城主の千石忠政自身も工事半ばで亡くなってしまった。
そのような事情から、仙石氏は幕府の方針に従順に城を最低限質素に築かざるをえなかったことであろう。
事実、上田城は本丸部分を除いては未完成であったとされている。
そのため、再築上田城には天守閣などはなく、それに代わる櫓も二層程度のものが本丸に七基あっただけで、城は中心の本丸のみに門・櫓を配しただけで、二の丸や三の丸には櫓はおろか塀すらなかった。
まさに「小城」であったのだ。
そのような城なら、なおさら金箔瓦など使われるはずはない。
まして、「武家諸法度」で築城を厳しく制限している徳川幕府がそんな豪華な瓦の使用なんか認めるはずはない。
そう考えると、この金箔瓦は仙石氏が再築した上田城ではなく、その前に存在していた真田氏、それも信之ではなくその父の昌幸によって築かれていた、今はまったく見ることのできない幻の上田城のものと考えるのが自然であろう。

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