上田城の金箔瓦2

このように、現在残る上田城は実は真田氏時代のものではない。
それは真田氏の後に上田に入った仙石氏が築き直したものである。
それでは真田氏時代の上田城はといえば、実はどのような規模でそこにどんな建物があったのか今もって分からない。
慶長五年(一六〇〇)の関が原合戦で上田城主であった真田昌幸が徳川家康に敵対したことから、合戦後、昌幸、幸村親子は和歌山の九度山に流され、徳川軍をさんざん苦しめた上田城は徳川家康の命でその痕跡を留めないほど完全に破壊されてしまった。
だが、戦前、この上田城内、それも中心部ではなく、旧二の丸の外れで信じられないものが見つかっていた。
その実物は現在上田城博物館に陳列されているが、それは瓦に金箔を施した、いわゆる「金箔瓦」というぜいたくな瓦である。
それは質素で小さな現在の上田城にはまったく似つかわしくない豪華なものである。
上田城では、戦前の最初の発見の後も、城跡の公園整備にともなう工事や本丸の堀の浚せつなどで、金箔瓦が城跡のあちこちで次々と見つかっていった。
しかも、そこでは鯱(しゃち)瓦、鬼瓦、鳥衾(とりぶすま)瓦という本格的な金箔瓦までもが次々と出土していった。

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