上田城の金箔瓦4

真田氏の居城であった上田城は慶長六年(一六〇一)ころに完全に破却されたのは事実である。
その後、関が原合戦では家康方についた真田昌幸の長男信之が父の領地を受け継いで上田に入るが、幕府は頑なに上田城の再建を認めず、信之は仕方なく近くに陣屋を建てて、そこで藩の政務をとるしかなかった。
破壊された後の上田城を記した当時の古図には、「ウメホリ」「畑」などという記述があちこちにあることから、信之が上田にいたとき、城の堀は埋められ、城跡は破壊されたままの状態で原っぱか畑になっていたようである。
ここから、真田信之が上田城の再建にまったく関わっていないのは確かである。
信之はやがて幕府の命を受け上田から信州松代(長野県長野市松代町)に移るが、その後に上田に入ったのは仙石氏である。
仙石氏が上田に入るにあたって、幕府はさすがに城がないのはまずいと思ったのか、やっと上田城の再築の許可を出した。
そこで、仙石氏は埋められていた堀を掘り返し、要所に石垣を築きという土木工事を始めたのだが、仙石氏が上田城に入った寛永三年(1626)という年は「武家諸法度」により城の築城が大きく制限されていた時期でもあった。
そこではきらびやかな城や立派な城などを作ることはもってのほかであった。
さらには、城の築城の陣頭指揮に当たっていた城主の千石忠政自身も築城の途中で亡くなってしまった。

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