上田城の金箔瓦3

これほどの金箔瓦が発見されたということは、上田城には金箔瓦で屋根を葺かれた豪華絢爛な建物があったというになる。
だが、そんな豪華な建物が質素だと思われていた上田城にあったとは考えにくい。
だが、考えてみると、上田城が質素であるというのは、あくまでも現在の姿である。
さらに、今に残る上田城は真田氏の後に上田に入った仙石氏が新たに築き直した城でもある。
もしかしたら、真田時代の上田城が絢爛豪華であった可能性はある。
だが、常識的に考えると、後から入った領主が前の領主の城より見た目が劣る城を築くということはあまり考えられない。
何より、城は領主の領民に対するシンボルであり、力の象徴なのである。
もし、次の領主が前の領主よりみすぼらしい城を築いたとすれば、領民たちはそれだけでその領主の力のなさを視覚の上でも実感するに違いない。
延宝元年(一六七三)に山鹿素行が著した『武家事紀』には、天正十三年(一五八五)徳川軍が真田氏の上田城を攻めたときに上田城を「天守もなき小城」と侮ったと記されている。
この史料がどこまで真実を伝えているかわからないが、真田氏の上田城が当時「天守もなき小城」と考えられていたことが分かる。
そんな城が絢爛豪華だったとはとても思えない。
ただ、その真田氏の居城であった上田城が慶長六年(一六〇一)ころに完全に破却され、埋められて地上から一度姿を消してしまったことは事実である。

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