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上田城の金箔瓦13

特に、沼田城では、本丸の天守閣推定地の周辺から近年の発掘調査で真田時代の天守に使われていたと思われる金箔瓦や軒丸瓦などが出土しており、その中には上田城出土のものとそっくりな菊花文軒丸瓦もあることが確認されている。これはまさに真田氏が上田城、...
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上田城の金箔瓦12

瓦は本丸西の堀の中でも、特に北端部と南端部の内側から数多く出土しているが、そこで発見された瓦は金箔瓦である。そのことから、真田氏も後の仙石氏と同じ場所に櫓を建てていたことは間違いない。ただし、真田氏の櫓はその屋根に金箔の瓦を使用した豪壮な櫓...
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上田城の金箔瓦11

平成三年の発掘では本丸水堀の底の南西の隅と北西部より軒丸瓦が多数発見されている。軒丸瓦は軒先に葺かれる丸い瓦で、上田城のものは菊花文様をしている。これは八枚または九枚の二重の花弁の菊の花をあしらったもので、秀吉時代の大坂城、聚落第や伏見城で...
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上田城の金箔瓦10

二の丸北西隅の櫓台下は現在、上田市市営野球場の一塁側スタンドに使われている土塁の北端に当たるが、その近くからは後に金箔を貼った鳥衾(とりぶすま)瓦も出土している。鳥衾瓦というのは建物の棟の両端から突き出す形で使われている長い筒状の瓦である。...
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上田城の金箔瓦9

天正十三年(一五八三)の上田城合戦では徳川軍は上田城を「天守もなき小城」と侮った(『武家事紀』)とあるが、これまでの構造を検討した限りでは上田城はそんなに小さな城であったとは思えない。確かに、当時の上田城には天守閣などというきらびやかな建物...
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上田城の金箔瓦8

それでは、真田氏の上田城はどのような城であったのだろうか?享保十六年(一七三一)に著された真田家の歴史を綴った『真武内伝』によれば、天正十三年(一五八三)八月当時、つまり、真田氏が徳川軍と初めて戦った時点での上田城の姿が描かれている。それに...
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上田城の金箔瓦7

金箔瓦というのは、読んで字のごとく瓦の凸凹面に金箔を張った大変ぜいたくな仕様の瓦で、織田信長、豊臣秀吉の時代、いわゆる安土桃山時代の城を中心に使用されたものである。しかし、その時代の城はどこでも金箔瓦を使用したのかというとそうではない。当初...
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上田城の金箔瓦6

金箔瓦は本丸西の堀に集中して発見されている。そこから考えられることは、真田氏の上田城が破壊されたとき、壊された建物は瓦とともに本丸の堀に捨てられ、その後、本丸の堀も跡形無く埋められてしまったため、金箔瓦が長い間地中に埋もれてしまっていたとい...
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上田城の金箔瓦5

仙石氏は埋められていた堀を掘り返し、要所に石垣を築くという新たな築城工事を始めた。しかし、仙石氏が上田城に入った寛永三年(1626)という年は「武家諸法度」により城の築城が大きく制限されていた。城はもはや軍事的な意味合いよりも、藩の政治を執...
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上田城の金箔瓦4

真田氏の居城であった上田城は慶長六年(一六〇一)ころに完全に破却されたのは事実である。その後、関が原合戦では家康方についた真田昌幸の長男信之が父の領地を受け継いで上田に入るが、幕府は頑なに上田城の再建を認めず、信之は仕方なく近くに陣屋を建て...