上田城の金箔瓦13

特に、沼田城では、本丸の天守閣推定地の周辺から近年の発掘調査で真田時代の天守に使われていたと思われる金箔瓦や軒丸瓦などが出土しており、その中には上田城出土のものとそっくりな菊花文軒丸瓦もあることが確認されている。
これはまさに真田氏が上田城、沼田城を同時期に築城したことを物語っている。
しかも、上田城は真田にとっては本城ともいうべき城であり、沼田城よりも大きく豪華であっても何の不思議はない。
寛永年間作成という「上田城構之図」には本丸の北西の隅よりに「御天守跡」という書き込みが見られる。
これについては、本丸の北西隅に真田時代の天守閣が建っていたという伝承があったものと思われる。
これらの事実と金箔瓦が本丸堀底やその周辺から出土しているという事実とを合わせて見れば、真田氏が改修した上田城には絢爛豪華な天守閣もしくはそれに相当する豪勢な建造物が、本丸の「御天守跡」と伝わる場所に建っていた可能性は十分にある。
さらに、上田城からは菊花文様の軒丸瓦が本丸の水堀の底と現在の市民体育館の場所から出土している。
現在の市民体育館のある場所はかつて「小泉曲輪」と呼ばれる曲輪があったところだが、ここは仙石氏時代はただの広場で何の建物もなかったところである。
真田時代にはこんなところにまでも豪華な瓦で葺かれた建物があったことがわかる。
真田時代の上田城は城全体に金箔瓦をふんだんに使用した豪壮な建造物が城全体に建てられていたのである。
それは、寛永期に仙石氏により再築された上田城と比べると、櫓など建造物の数もはるかに多く、城全体がずっと整備されたものであったことを何より示している。

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