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真田家と六文銭2

だが、その話は大いに疑問視されている。何より「日向畑遺跡」では、真田氏の先祖と思われる墓が多数発見されている。さらには、真田氏が幸隆よりずっと以前から真田の地に存在したのではないかと推定される文献もいくつか存在している。その一つは応永七年(...
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真田の六文銭

真田家の代名詞といえば、何といっても六文銭の家紋であろう。六文銭は正式には六連銭といい、通説では死して地獄の獄卒に渡す銭だとされている。ここから、真田氏の死をも恐れぬ決意と心情が読み取れると思いがちだが、実はこの家紋、もともとは海野氏の家紋...
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上田城の金箔瓦18

その記述から、絢爛豪華であった真田氏の上田城は建物や塀はすべて壊され、城の周囲をめぐっていた堀もすべて埋められてしまったことが分る。家康は後に秀吉時代の大坂城を壊して地下に埋め、さらには伏見城も跡形もなく壊しているが、その豊臣政権の存在を色...
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上田城の金箔瓦17

それは、秀吉の最も信頼する一門さらには重臣的な存在であり、豊臣政権を支える者たちであった。彼らはいざというときには、関東の家康を牽制し、真っ先に豊臣家を守る、秀吉が期待した者たちであった。秀吉によるその認証こそが金箔瓦を使用することにあった...
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上田城の金箔瓦16

上田城をはじめとする金箔瓦の城は人々が今までかつて見たこともない絢爛豪華な城として、その城主たちを通して秀吉の力の大きさを彼らにまざまざと見せ付けていったに違いない。同様に、信濃小県、真田郷の人々も真田昌幸が修築した上田城を見て度肝を抜かれ...
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上田城の金箔瓦15

だが、秀吉政権のもとでは、当時の武将は誰でも伏見城や大坂城にならって自分の城を豪華絢爛に改修することができたのであろうか。そしてそこに金箔瓦を自由に使用することができたのであろうか。それも伏見城とまったく同じ八枚または九枚の二重の花弁の菊の...
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上田城の金箔瓦14

慶長五年(一六〇〇)、関ケ原合戦において、美濃に向かっていた徳川秀忠軍は再び上田城を攻めるが、『寛永諸家系図伝』によれば、徳川軍はそのとき「大手の門」に押し寄せ、真田の兵は「矢倉のうへより弓をもって」防戦していたが、それを「塀の下につき槍を...
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上田城の金箔瓦13

特に、沼田城では、本丸の天守閣推定地の周辺から近年の発掘調査で真田時代の天守に使われていたと思われる金箔瓦や軒丸瓦などが出土しており、その中には上田城出土のものとそっくりな菊花文軒丸瓦もあることが確認されている。これはまさに真田氏が上田城、...
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上田城の金箔瓦12

瓦は本丸西の堀の中でも、特に北端部と南端部の内側から数多く出土しているが、そこで発見された瓦は金箔瓦である。そのことから、真田氏も後の仙石氏と同じ場所に櫓を建てていたことは間違いない。ただし、真田氏の櫓はその屋根に金箔の瓦を使用した豪壮な櫓...
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上田城の金箔瓦11

平成三年の発掘では本丸水堀の底の南西の隅と北西部より軒丸瓦が多数発見されている。軒丸瓦は軒先に葺かれる丸い瓦で、上田城のものは菊花文様をしている。これは八枚または九枚の二重の花弁の菊の花をあしらったもので、秀吉時代の大坂城、聚落第や伏見城で...