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上田城の金箔瓦17

それは、秀吉の最も信頼する一門さらには重臣的な存在であり、豊臣政権を支える者たちであった。 彼らはいざというときには、関東の家康を牽制し、真っ先に豊臣家を守る、秀吉が期待した者たちであった。 秀吉によるその認証こそが金箔瓦を使用することにあ...
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上田城の金箔瓦16

上田城をはじめとする金箔瓦の城は人々が今までかつて見たこともない絢爛豪華な城として、その城主たちを通して秀吉の力の大きさを彼らにまざまざと見せ付けていったに違いない。 同様に、信濃小県、真田郷の人々も真田昌幸が修築した上田城を見て度肝を抜か...
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上田城の金箔瓦15

だが、秀吉政権のもとでは、当時の武将は誰でも伏見城や大坂城にならって自分の城を豪華絢爛に改修することができたのであろうか。そしてそこに金箔瓦を自由に使用することができたのであろうか。 それも伏見城とまったく同じ八枚または九枚の二重の花弁の菊...
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上田城の金箔瓦14

慶長五年(一六〇〇)、関ケ原合戦において、美濃に向かっていた徳川秀忠軍は再び上田城を攻めるが、『寛永諸家系図伝』によれば、徳川軍はそのとき「大手の門」に押し寄せ、真田の兵は「矢倉のうへより弓をもって」防戦していたが、それを「塀の下につき槍を...
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上田城の金箔瓦13

特に、沼田城では、本丸の天守閣推定地の周辺から近年の発掘調査で真田時代の天守に使われていたと思われる金箔瓦や軒丸瓦などが出土しており、その中には上田城出土のものとそっくりな菊花文軒丸瓦もあることが確認されている。 これはまさに真田氏が上田城...
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上田城の金箔瓦12

瓦は本丸西の堀の中でも、特に北端部と南端部の内側から数多く出土しているが、そこで発見された瓦は金箔瓦である。 そのことから、真田氏も後の仙石氏と同じ場所に櫓を建てていたことは間違いない。 ただし、真田氏の櫓はその屋根に金箔の瓦を使用した豪壮...
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上田城の金箔瓦11

平成三年の発掘では本丸水堀の底の南西の隅と北西部より軒丸瓦が多数発見されている。 軒丸瓦は軒先に葺かれる丸い瓦で、上田城のものは菊花文様をしている。 これは八枚または九枚の二重の花弁の菊の花をあしらったもので、秀吉時代の大坂城、聚落第や伏見...
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上田城の金箔瓦10

二の丸北西隅の櫓台下は現在、上田市市営野球場の一塁側スタンドに使われている土塁の北端に当たるが、その近くからは後に金箔を貼った鳥衾(とりぶすま)瓦も出土している。 鳥衾瓦というのは建物の棟の両端から突き出す形で使われている長い筒状の瓦である...
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上田城の金箔瓦9

天正十三年(一五八三)の上田城合戦では徳川軍は上田城を「天守もなき小城」と侮った(『武家事紀』)とあるが、これまでの構造を検討した限りでは上田城はそんなに小さな城であったとは思えない。 確かに、当時の上田城には天守閣などというきらびやかな建...
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上田城の金箔瓦8

それでは、真田氏の上田城はどのような城であったのだろうか? 享保十六年(一七三一)に著された真田家の歴史を綴った『真武内伝』によれば、天正十三年(一五八三)八月当時、つまり、真田氏が徳川軍と初めて戦った時点での上田城の姿が描かれている。 そ...