上田城の金箔瓦6

金箔瓦は本丸西の堀に集中して発見されている。
そこから考えられることは、真田氏の上田城が破壊されたとき、壊された建物は瓦とともに本丸の堀に捨てられ、その後、本丸の堀も跡形無く埋められてしまったため、金箔瓦が長い間地中に埋もれてしまっていたということである。
しかし、それにしても、この金箔瓦の発見は、真田氏時代の上田城が現在のものとはまったく異なる絢爛豪華な城であったことを物語っている。
だが、上田城を築いた当時の真田氏は石高も三万五千石ほどでとても大きな大名といえる存在ではなかった。
その真田氏が豪華絢爛な城を独自に築けたとはどうしても思えない。
そう考えると、真田時代の上田城というのは謎に満ちている。 
この真田氏のもう一つの城、上州沼田城も天和元年(一六八一)に幕府の手で破壊されている。
信州の上田城は早くに壊されたが、この関東の沼田城は上田城より八十年ほど長く存続していた。
沼田城の破壊の理由は、沼田藩が悪政を理由に改易になり取り潰されたからである。
そのとき、城の建物は壊され、城の石垣ごと地下に埋められてしまったようである。
だが、かつてこの城には徳川将軍のいる江戸城を除いては関東で唯一の五層の壮麗な天守閣があった
この天守閣があったと推定されている場所には現在「天守閣跡」の小さな石碑がひっそりと建てられているが、その周囲には石垣の石一つも見当たらない。
だが、公園整備の際、かつての沼田城内、特に天守閣があったと推定されている場所からも上田城と同様の「金箔瓦」が発見された。
そこから、沼田城の天守閣はかつては屋根を「金箔瓦」で葺かれていたことが推定された。
ここ関東、群馬県沼田でも、真田氏は絢爛豪華な城を築いていたのであった。
なぜ、真田氏は上田城、沼田城とそんなに豪華な城を築くことができたのであろうか。

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