上田城の金箔瓦12

瓦は本丸西の堀の中でも、特に北端部と南端部の内側から数多く出土しているが、そこで発見された瓦は金箔瓦である。
そのことから、真田氏も後の仙石氏と同じ場所に櫓を建てていたことは間違いない。
ただし、真田氏の櫓はその屋根に金箔の瓦を使用した豪壮な櫓であった可能性が高い。
これを証するように、平成二年から三年の発掘では、本丸北西の隅櫓の西下から背びれと腹部に金箔が貼られた鯱瓦が発見されている。
鯱瓦というのは、名古屋城の金のシャチホコが有名なように、天守閣などの屋根の上に置かれている瓦である。
そのことから、この本丸北西の隅というのは単なる隅櫓ではなく、天守閣のような豪華な櫓建築であったと推定されるのである。
現在も上田城の本丸内を歩いてみると、その北半分は低い石垣で仕切られ一段高くなっていることが分る。
そこは「上ノ台」と称され、上田城の中でも特別な場所とされていた。
そこに真田昌幸は城の中で最も重要な建物、天守閣を建てていた可能性が高いのである。
昌幸が上田城を改修したと考えられる天正十八年以降、上田城周辺の信濃でも諏訪高島城、小諸城に三層の天守が、松本城には五層の天守閣が上げられおり、さらには真田氏のもう一つの城である沼田城も後に五層の天守閣が建てられている。
そのことから、上田城にもそれに匹敵する建物、天守があったと考えるのが自然であろう。

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