上田城の金箔瓦14

慶長五年(一六〇〇)、関ケ原合戦において、美濃に向かっていた徳川秀忠軍は再び上田城を攻めるが、『寛永諸家系図伝』によれば、徳川軍はそのとき「大手の門」に押し寄せ、真田の兵は「矢倉のうへより弓をもって」防戦していたが、それを「塀の下につき槍をもって矢倉のうへの兵をつ」いたと記されている。
これらの記述から、上田城は関が原合戦の時点までには、城のもっとも外側にある三の丸の入り口にまでも大手門を開き、その三の丸の周囲にも堀・土居だけでなく、櫓・土塀もめぐらすような広大な構えをとっていたことが推察される。
真田昌幸は戦国時代の実戦本意の質素な城であった上田城を城全体に金箔瓦で屋根を葺かれた豪壮な櫓を随所に建て、さらには城門や土塀も隅々まで配置された目もくらむばかりの絢爛豪華な城に改修していたことが分かるのである。
秀吉の文書によれば、昌幸は文禄二年(一五九三)秀吉が京都郊外に築いた伏見城の工事に携わっているが、天正十八年(一五九〇)に新たに信濃の領主として任じられた松本城の石川氏、高島城の日根野氏、小諸城の仙石氏も昌幸同様伏見城の普請に参加している。
彼らは真田氏と同じ信濃一~二郡程度の領主であるが、その居城にはいずれも立派な天守閣がある。
彼らは自らの城の大規模な築城工事を行いながら、その合い間に伏見城の普請に参加していたのである。
彼らの城からも金箔瓦が発見されていることは先に述べた通りである。
これらのことから、真田昌幸もそれら近隣諸侯の城にならって、また、豪華絢爛な作りをもつ伏見城の普請などを間近に見て、それらを参考に上田城の整備改修をしたことは十分考えられる。
それは、上田城でみつかった金箔瓦、特に軒丸瓦の菊花文様が伏見城からの出土品とまったく同じであり、小泉曲輪からも菊花文様の軒丸瓦が発見されているという事実が何よりも示している。

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