上田城の金箔瓦9

天正十三年(一五八三)の上田城合戦では徳川軍は上田城を「天守もなき小城」と侮った(『武家事紀』)とあるが、これまでの構造を検討した限りでは上田城はそんなに小さな城であったとは思えない。
確かに、当時の上田城には天守閣などというきらびやかな建物は存在しなかったであろうが、城そのものはそんなに小さいものではなかったのではなかろうか。
当初の上田城は天正十一年(一五八三)に起工し、同十三年には一応の完成をみたものと考えられている。
しかし、このときの上田城は石垣もなく、建物も簡素で中世戦国時代の実戦本意の城であったと思われる。
もちろん、そこでは金箔瓦はもちろん瓦の使用さえも皆無だったと思われる。
しかし、真田昌幸は豊臣系の大名となってから、上田城の大改修に乗り出したことは確かである。
しかも、それまでの上田城とはまったく異なる安土桃山風のきらびやかな城にである。
それは、金箔瓦や菊花文様の軒丸瓦が上田城より出土していることが何よりも証明している。
上田城では昭和元年に二の丸北西隅の櫓台下から金箔の貼られた鬼瓦が最初に出土した。
だが、仙石氏が再築した上田城では二の丸には櫓や櫓門等の建物はもとより、土塀さえもまったく築かれることはなかった。
そのことから、再築された仙石氏の上田城の二の丸北西櫓台の場所に櫓が建っていた可能性はまったくない。
そう考えると、この二の丸で発見された金箔鬼瓦は真田時代のものに間違いはない。

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