上田城の金箔瓦15

だが、秀吉政権のもとでは、当時の武将は誰でも伏見城や大坂城にならって自分の城を豪華絢爛に改修することができたのであろうか。そしてそこに金箔瓦を自由に使用することができたのであろうか。
それも伏見城とまったく同じ八枚または九枚の二重の花弁の菊の花をあしらった菊花文様の金箔瓦をである。
この点について加藤理文氏は文禄四年(1595)の大坂城の壁書きに秀吉からの「拝領」以外は菊・桐紋の使用は認められないとされていることから「菊・桐紋は秀吉の独占する紋となり、秀吉以外の使用は特別の許可が必要であったと考えられる。」とする見解を述べている。
さらに加藤氏は「天正十九年(一五九一)前後の築城で、菊・桐紋が使用されている瓦は、何らかの秀吉からの命令・指令によって葺かれたとすべきである。」ともしている。(『金箔瓦使用城郭から見た信長・秀吉の城郭政策』)
このことから考えると、まさに上田城は「秀吉からの命令・指令」によって菊花文様の金箔瓦が葺かれたということになる。
さらに、加藤氏は前記論文の中で上田城に金箔瓦を葺くに当たっては小大名の真田氏では経済的負担が大きく「豊臣政権から経費が支出されていた」可能性もあるとしている。
そのことから、まさに上田城は秀吉のステータスシンボルであった伏見城や大坂城のミニチュア版ともいうべき存在でもあったといえる。
その大きな役目の一つはまさに秀吉の威厳をそのミニチュア版の城を通して天下万民に知らしめることにあったはずである。

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