上田城の金箔瓦8

それでは、真田氏の上田城はどのような城であったのだろうか?
享保十六年(一七三一)に著された真田家の歴史を綴った『真武内伝』によれば、天正十三年(一五八三)八月当時、つまり、真田氏が徳川軍と初めて戦った時点での上田城の姿が描かれている。
それによると、当時の上田城には「二之丸門櫓」「二之丸門」「塀狭間櫓」「本城」「二之丸」「捨曲輪」「総構」があったことが分る。
また、徳川軍が「大手門」より侵入して二の丸に迫ったとあるところから、二の丸の外に大手門のある三の丸があったことも推定できる。
さらに、徳川幕府の手で慶長五年(一六〇〇)に破壊された上田城の城跡を記した「元和年間上田城図」にも「昔ノ惣構」という書き込みがある。
これらの記述から、最初に築かれた上田城の構造を推定すると、当初の上田城は少なくとも、本丸、二の丸、三の丸、「捨曲輪(すてくるわ)」「総構(そうがまえ)」という構造をもっていたことになる。
この「捨曲輪(すてくるわ)」というのは、上田城と立地条件が似ている同じ真田氏の沼田城にも同じ名前の曲輪が本丸のすぐ北側にある。あるいは、上田城でも同じような位置にあったのかもしれない。
「総構(そうがまえ)」というのは、城下町を土居などでそっくり囲った防衛施設のことでその中に城下町の住人が住んでいた。つまり、城下町の住人はこの「総構(そうがまえ)」で敵から守られていたということになる。

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