真田家と六文銭2

だが、その話は大いに疑問視されている。
何より「日向畑遺跡」では、真田氏の先祖と思われる墓が多数発見されている。
さらには、真田氏が幸隆よりずっと以前から真田の地に存在したのではないかと推定される文献もいくつか存在している。
その一つは応永七年(一四〇〇)に行われた大塔合戦の模様を記した『大塔物語』で、そこに参戦した武士の中に「実田」という名の武士が出てくるのである。
「実田」はこのまま素直に読むと「さねだ」とか「みだ」とか読め、一見真田氏とは別の人物のように思えるのだが、この書ではわざわざ「さなだ」とふり仮名がつけられていることから、その武士の名は「さなだ」、つまり真田氏ということになる。
大塔合戦というのは、応永七年(一四〇〇)に大塔河原(現在の長野市篠ノ井)で行われた信濃守護小笠原氏とそれに反抗する信濃在地の土豪武士団とが戦った合戦のことであるが、その中の祢津(ねづ)遠光に従った武士の中に「実田」という名が見えるのである。
しかも、興味深いのは、この祢津氏に従った武士の中には真田氏の他に「横尾」氏、「曲尾(まがりお)」氏という名前が見えることである。
この「横尾」「曲尾」というのはどれも現在の上田市真田町に実際に存在する地名である。
そのことから、「真田」「横尾」「曲尾」氏というのは真田町のそれぞれの地名の場所をその本拠地としていた土豪だと考えられる。
つまり、当時の真田氏は横尾氏や曲尾氏とともに真田町一帯の地を三分する形で領有していた土豪であったものと考えられるのである。
ここから、真田氏は幸隆より一五〇年前は真田町の一部を領有するだけの小さな豪族であったことが推定できる。

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