上田城の金箔瓦17

それは、秀吉の最も信頼する一門さらには重臣的な存在であり、豊臣政権を支える者たちであった。
彼らはいざというときには、関東の家康を牽制し、真っ先に豊臣家を守る、秀吉が期待した者たちであった。
秀吉によるその認証こそが金箔瓦を使用することにあったのではなかろうか。
これまでみてきたように、秀吉は真田昌幸を厚遇し、自らの信頼する重臣として位置付けていたが、その事実は金箔瓦をふんだんに使用した絢爛豪華な上田城の存在がそれを証明している。
以上のことから、関が原合戦まで存在した真田氏の上田城は本丸に金箔の鯱瓦をもった天守閣もしくはそれに相当する大きな櫓が存在し、二の丸、三の丸の周囲の土居、櫓台上にも金箔瓦を用いた隅櫓や土塀をめぐらしたもので、次の仙石氏時代よりもはるかに豪壮で雄大なものであったことは間違いない。
だが、その豪華絢爛だった上田城は、関が原合戦の後破却され今ではまったく見ることはできない幻の城になってしまった。
徳川幕府が江戸時代初期に編纂した『寛永諸家系図伝』の大井政成の項には「関が原御帰陣の後、真田の城にいたりて堀を埋め、塀をこぼちてその城を守る、そののち鈞命によりて城を真田伊豆守信幸にわたす」とある。
ここでは、関が原合戦の後上田城が破壊され、そして、その後、鈞命つまり徳川家康の命により廃城となった上田城を真田信幸(後に信之と改名)に引き渡したというのである。

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