江戸時代の編纂ではあるが、『信陽雑誌』という書には、永享十年(一四三八)の結城合戦で信濃の豪族村上頼清に従って出陣した北信濃武士の中に海野十郎、祢津小二郎、室賀入道たちとともに真田源太、源五、源六の名が見える。
これらの武士たちはその名前からどれも上田・小県地方の武士であることは間違いない。
ここに出てくる真田源太、源五、源六も当然小県真田地方の武士、すなわち真田氏の先祖ということになろう。
これらのことから、真田氏という氏族は古くから真田郷に土着していた土着の豪族すなわち土豪であった可能性が高い。
そうなると、真田幸隆以降の真田氏は真田郷に土着していた豪族であった自らの過去を切り捨て、自らを信濃の名族海野氏の嫡流と称して、その系図までも作り変えてしまったことになる。
先に述べた真田町の「日向畑遺跡」では破壊された真田氏の先祖と思われる墓石が多数発見されている。
『真田町誌』は、何者かがこの墓石を「故意に破壊したか、あるいは隠滅をした」としているが、破壊はともかく、それは真田氏が自らの先祖を抹殺せんとした跡なのだろうか。
ただ、真田郷は天文十年(一五四一)に戦国大名村上義清らに攻められていることから、そのとき、そこにあった寺が焼かれ墓石が壊された可能性もある。
しかし、それにしても、墓石は破壊されたまま放置され土の中に昭和の時代まで長く埋もれていたことは事実である。
この事実は、少なくとも、真田氏がそれを掘り返して自らの先祖を復活する意思などまったくしなかったことを意味している。
やはり、真田氏にとって、過去を示す自分の本当の先祖は都合が悪かったのであろうか。