真田家の代名詞といえば、何といっても六文銭の家紋であろう。
六文銭は正式には六連銭といい、通説では死して地獄の獄卒に渡す銭だとされている。
ここから、真田氏の死をも恐れぬ決意と心情が読み取れると思いがちだが、実はこの家紋、もともとは海野氏の家紋であり、真田氏独自のものではない。
事実、海野氏を先祖とする諸家もこの家紋を使っている。
上杉謙信が関東管領に就任するにあたって、小田原北条氏を攻めるため、関東の武士を結集しているが、その中に何家か六連銭の旗を掲げた武士があったことが知られている。
六連戦は、海野家の家紋なのである。
それでは、なぜ、真田氏がそれを自家の家紋にするようになったのであろうか?
江戸時代松代藩真田家によって編纂された「真田家系図」をはじめとするいくつかの系図には真田氏は海野氏直系の真田幸隆から始まるとされている。
歴史家の小林計一郎氏は「この真田氏では幸隆以前の確実な名は一つも伝えられていない。これは真田氏が海野氏の嫡流と称したことにより、本当の先祖が抹殺されてしまったとも考えられる。」(『真田一族』)としている。
そして、それを証するかのように、現在残されている真田系とされる系図にはどれも真田氏はもともと信州の名族海野氏であり、幸隆の代になって真田の地に住み真田を名乗ったとしているのである。
だが、これはおかしい。