その記述から、絢爛豪華であった真田氏の上田城は建物や塀はすべて壊され、城の周囲をめぐっていた堀もすべて埋められてしまったことが分る。
家康は後に秀吉時代の大坂城を壊して地下に埋め、さらには伏見城も跡形もなく壊しているが、その豊臣政権の存在を色濃く残す上田城もこの世から消し去ってしまいたかったに違いない。
この上田城の破却は慶長六年(一六〇一)の前半に行われたものと考えられているが、元和七年(一六二二)の絵図によると、上田城の中心部は「古城本丸」「ウメホリ」「畑」などと記されており、上田城が廃城になってその跡が畑になっていたことが分る。
その後、上田城は寛永三年(一六二六)からの仙石氏による再築工事の際、埋められていた堀を掘り上げられて堀だけは元に戻されたようである。
それは、寛永三年(一六二六)に仙石忠政が家臣に与えた覚書に「なわばりの時、古城ゆがみこれ在る所候はば、たといほり口十五間外ひろく成り候共、ここ向かいのゆがみをとり候てほり、すぐ(まっすぐ)に仕るべき事」とあり、古城すなわち真田時代の城の堀にゆがみがあった場合は真っ直ぐにするようにと指示していることから分る。
また、そのことから、上田城の建物などは大きく変わってしまったものの、仙石氏再築の上田城は本丸、二の丸などの曲輪(くるわ)の基本的な配置は真田氏のものを踏襲したようである。
だが、一方で、この質素な上田城は真田氏時代の上田城と比べて大きく見劣りしたことは否めない事実であろう。
領民たちはそこから新たな領主による厳しい冬の時代の到来を予感したのかもしれない。