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真田家と六文銭8

滋野一族は現在の小県郡東部町海野のあたりに本拠を置き、古代末期から中世にかけて、信濃の一大勢力であっが、やがて三家に分かれ、海野氏(東部町海野)、禰津氏(東部町)、望月氏(佐久郡)とそれぞれの居住地の名を名乗った。 そのうち、海野氏は滋野三...
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真田家と六文銭7

以上のように、真田氏は徹底的に海野氏に成り切っていたとさえいえる。 これらのことから、真田氏の唱える海野嫡流説の主張は他の大名たちのように、単に系図の上での表面だけのものでないことが分かる。 松代真田の藩祖真田信之は妻の一周忌に建てた銘文の...
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真田家と六文銭6

例えば、現在、上田城の北東方向には鬼門除けとして開善寺(のちの海禅寺)と八幡社が配置されているが、この両方の寺社はともに上田築城以前は本海野、つまり海野氏の本拠地にあったことが分かっている。 しかも、その二つの寺社は海野氏の居館があったと跡...
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真田家と六文銭5

家の系図を作り変えることは江戸時代の大名にとっては日常茶飯の当たり前のことであったことも一方では事実である。 というのは、江戸時代の大名というのは島津氏や毛利氏など一部の名門を除いては秀吉、家康という天下人のもとで時流に乗って勃興してきた勢...
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8月度のNHK学園

コロナ渦の中で、先月よりNHK学園「三池純正の歴史講座」が再開されました。 先月は、「信長の手紙を読む」とのタイトルで、最近の戦国史の研究成果を学びながら信長の書状を通して、当時の事件や信長の人間性などを考察しました。 昨日は「秀吉の手紙を...
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真田家と六文銭4

そうなると、真田氏は自分の本当の先祖を切り捨て海野氏の系図に自らをつなげたことになる。 『真田昌幸の出自と系譜』の著者ると、真田氏は自分の本当の先祖を切り捨て海野氏の系図に自らをつなげたことになる。 『真田昌幸の出自と系譜』の著者である隆史...
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真田家と六文銭3

江戸時代の編纂ではあるが、『信陽雑誌』という書には、永享十年(一四三八)の結城合戦で信濃の豪族村上頼清に従って出陣した北信濃武士の中に海野十郎、祢津小二郎、室賀入道たちとともに真田源太、源五、源六の名が見える。 これらの武士たちはその名前か...
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真田家と六文銭2

だが、その話は大いに疑問視されている。 何より「日向畑遺跡」では、真田氏の先祖と思われる墓が多数発見されている。 さらには、真田氏が幸隆よりずっと以前から真田の地に存在したのではないかと推定される文献もいくつか存在している。 その一つは応永...
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真田の六文銭

真田家の代名詞といえば、何といっても六文銭の家紋であろう。 六文銭は正式には六連銭といい、通説では死して地獄の獄卒に渡す銭だとされている。 ここから、真田氏の死をも恐れぬ決意と心情が読み取れると思いがちだが、実はこの家紋、もともとは海野氏の...
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上田城の金箔瓦18

その記述から、絢爛豪華であった真田氏の上田城は建物や塀はすべて壊され、城の周囲をめぐっていた堀もすべて埋められてしまったことが分る。 家康は後に秀吉時代の大坂城を壊して地下に埋め、さらには伏見城も跡形もなく壊しているが、その豊臣政権の存在を...