ブログ

真田家と六文銭14

小県地方には今でもたくさんの城跡が残っているが、「千葉城」という名の城はどこにもない。そのことから、この千葉城の所在は長く不明とされてきた。しかし、『真田町誌』は『御符札之古書』でいう「千葉城」というのは「洗馬城」のことを指すのではないかと...
ブログ

真田家と六文銭13

史料には、海野氏を攻めたその人物の名は明記されてはいないが、それは村上氏、当時の当主政清と考えられている。村上氏は信濃更級郡村上郷に起こった豪族で、清和源氏の流れを汲み、源義家の父頼義の弟頼清のとき村上氏を称したことから始まる信濃の名族であ...
ブログ

真田家と六文銭12

それにしても、真田氏はなぜ海野氏の嫡流にならなければならなかったのだろうか。そして、そのことになぜそれほどまでこだわらなければならなかったのだろうか。依然としてその疑問は残り続ける。ただ、その後の歴史から分かることは、海野氏の嫡流がある時期...
ブログ

真田家と六文銭11

そんな様々な技術をもつ一大集団でもあった彼ら修験者を味方につけることが軍事的にもどれほど重要であったかはいうまでもない。その海野氏と修験者との関係を示すエピソードがある。『源平盛衰記』によれば、木曾義仲は養和元年(1181)横田河原の戦いで...
ブログ

真田家と六文銭10

白鳥神社は海野氏の本拠地海野にあり、海野氏は滋野氏の本家としてその修験信仰をそのまま継承していた。修験者というのは一面は確かに宗教者には違いないが、険しい岩山などで厳しい修行を積んだ彼らは山野荒地を駈け巡りどんな難路をも通行できる技術を持っ...
ブログ

真田家と六文銭9

真田氏が自らの祖と主張する海野氏の名が初めて歴史に現れるのは、保元の乱(1156)を描いた『保元物語』である。そこでは、源義朝指揮下の武士の中に海野幸親という武士の名がみえる。その後、治承四年(1180)から源頼朝が平家打倒に立ち上がり有名...
ブログ

真田家と六文銭8

滋野一族は現在の小県郡東部町海野のあたりに本拠を置き、古代末期から中世にかけて、信濃の一大勢力であっが、やがて三家に分かれ、海野氏(東部町海野)、禰津氏(東部町)、望月氏(佐久郡)とそれぞれの居住地の名を名乗った。そのうち、海野氏は滋野三家...
ブログ

真田家と六文銭7

以上のように、真田氏は徹底的に海野氏に成り切っていたとさえいえる。これらのことから、真田氏の唱える海野嫡流説の主張は他の大名たちのように、単に系図の上での表面だけのものでないことが分かる。松代真田の藩祖真田信之は妻の一周忌に建てた銘文の中で...
ブログ

真田家と六文銭6

例えば、現在、上田城の北東方向には鬼門除けとして開善寺(のちの海禅寺)と八幡社が配置されているが、この両方の寺社はともに上田築城以前は本海野、つまり海野氏の本拠地にあったことが分かっている。しかも、その二つの寺社は海野氏の居館があったと跡推...
ブログ

真田家と六文銭5

家の系図を作り変えることは江戸時代の大名にとっては日常茶飯の当たり前のことであったことも一方では事実である。というのは、江戸時代の大名というのは島津氏や毛利氏など一部の名門を除いては秀吉、家康という天下人のもとで時流に乗って勃興してきた勢力...