そうなると、真田氏は自分の本当の先祖を切り捨て海野氏の系図に自らをつなげたことになる。
『真田昌幸の出自と系譜』の著者ると、真田氏は自分の本当の先祖を切り捨て海野氏の系図に自らをつなげたことになる。
『真田昌幸の出自と系譜』の著者である隆史氏によると、江戸時代初期、あるいは『寛永系図』編纂のおり、真田氏が自分の家の系図を幕府に提出するにあたって、幸隆を海野氏系図に無理やり結びつけた可能性が高いという。
そのやり方は、①「真田七郎」という海野氏から分かれた真田氏の初代とみられる幸春を、茂氏だったはずの海野氏の惣領の位置に付け替え、②幸春以降、幸隆に至るまでの真田氏の歴代を実在の確かな幸義以降の海野氏当主は残して、③それ以前の必ずしも存在の明らかでない部分を削った所へそっくり挿入したのではないかというのである。
その結果、『寛永系図』では不自然に当主の代数が多くなってしまったのだという。
また、真田幸隆は武田信玄の重臣としてその頭角を表していくが、武田氏の家臣たちが信濃生島足島神社に奉納した信玄への誓書をみると、現実には海野氏一族とみられる海野姓の武田家家臣は何人もいたことが分かる。
その中にあって幸隆は最後まで海野の姓を名乗ってはいない。
そして、現実には、武田信玄の二男で盲人であった龍宝も海野氏の娘を妻として、海野氏の名跡を継いだという事実もある。
しかし、真田氏は幸隆以来、なぜか、海野氏の嫡流を継ぐ家として強烈に自己主張をしているのである。