例えば、現在、上田城の北東方向には鬼門除けとして開善寺(のちの海禅寺)と八幡社が配置されているが、この両方の寺社はともに上田築城以前は本海野、つまり海野氏の本拠地にあったことが分かっている。
しかも、その二つの寺社は海野氏の居館があったと跡推される場所(本海野小字太平寺)のやはり鬼門の方角に建てられていたというのである。
海野嫡流を自称する真田氏は、上田城の築城にあたって、海野氏の例にならうため、本海野より鬼門除けとして開善寺と八幡社をわざわざ城下に、それも上田城の鬼門の方角に移したと考えられるのである。
上田城を築城した真田昌幸はさらに本海野から願行寺、天文年間に戦死した海野幸義の菩提を弔うために建てられたという日輪寺も上田に移した可能性があるという。
また、上田の中心は真田時代以降も海野町と原町であったが、真田昌幸の上田城下町は寺社の配置も含めて、海野氏の本拠地本海野から移された海野町がその構成の基本要素となっていたとされる。
そこでは、上田は完全な海野氏の城と城下町という体裁を取っていたことがわかる。
ここで興味深いことは、真田氏はその本拠であるはずの真田郷から上田へ寺社を一つも移してはいないということである。