真田家と六文銭9

真田氏が自らの祖と主張する海野氏の名が初めて歴史に現れるのは、保元の乱(1156)を描いた『保元物語』である。
そこでは、源義朝指揮下の武士の中に海野幸親という武士の名がみえる。
その後、治承四年(1180)から源頼朝が平家打倒に立ち上がり有名な源平合戦が始まるが、海野氏をはじめとする滋野一族は木曾義仲の軍に加わって打倒平家をめざし京に進んでいた。
この源平合戦で海野氏の当主の幸広(幸親の子)は討ち死にし、総大将の木曾義仲も頼朝の弟源義経に攻められ敗死する。
しかし、海野幸広の子の幸氏は窮地を脱してその後鎌倉幕府の有力な御家人となっていった。
この海野幸氏は『吾妻鏡』にも弓馬の達人として登場し、鶴岡八幡宮の流鏑馬の射手に選ばれているほどだ。
海野氏は武門を誇る家で、信濃の名門の武士であったことが分る。
しかし、この海野氏はもう一つ特徴的な独自の流れをもっていた。
それは、海野氏に代表される滋野一族は修験者と深い関係をもっていたことである。
滋野氏が氏神としていた白鳥明神は修験の神であり、滋野一族自身も長い間修験山伏や巫女を支配してきたといわれている。
滋野氏自身、修験者の大檀那であった可能性が高いのである。
さらに、この白鳥神社は海野氏の本拠地海野にあることから、海野氏は滋野氏の本家としてその修験信仰をそのまま継承してきたことが分かる。

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