真田家と六文銭7

以上のように、真田氏は徹底的に海野氏に成り切っていたとさえいえる。
これらのことから、真田氏の唱える海野嫡流説の主張は他の大名たちのように、単に系図の上での表面だけのものでないことが分かる。
松代真田の藩祖真田信之は妻の一周忌に建てた銘文の中で自らを「真田伊豆守滋野朝臣信之」としているが、海野氏は滋野氏が小県郡の海野に住したことから名乗った名であることから、ここでいう滋野姓はそのまま海野姓を意味している。
真田氏は上田から長野県松代に移されるが、松代藩主真田家は近世を通じて正式の名乗りは「滋野」と称していた。
一方では清和源氏と称しながらも、「源」とは決して名乗らなかった。
当時は日本中の大名が源平藤橘を名乗り、それに統一されてしまう中で、なお真田氏は最後まで「滋野」の姓を捨てなかった。
それは、真田氏が滋野一族であるとの誇りを最後の最後まで捨てなかったことを何よりも表しているといえよう
それでは、真田氏が自らの祖とした滋野姓海野氏というのはどんな氏族であったのだろうか。
滋野氏というのは伝承によれば、清和天皇の皇子貞保親王の孫である善淵恒陰が滋野と称して信濃守として赴任してきたことから起こったという。
この信濃の滋野一族は現在の小県郡東部町海野のあたりに本拠を置き、古代末期から中世にかけて、信濃の一大勢力であった。

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