真田家と六文銭16

かねてから小県地方を領地にしたいと目論んでいた村上氏にとってこれはまさに千載一遇のチャンスであったろう。
真田家の歴史を綴った『真武内伝』には、この事件の発端は海野氏の家老であった春原某という者が村上氏へ内応し、海野氏を裏切ったことから始まったとある。
先の記録から武田、諏訪、村上の連合軍は挟み撃ちで小県に攻め入り、海野方の前線尾野山城を攻め落とし、その勢いで海野平、禰津(ねづ)へと攻め込み、そこを二日間で攻め落としたことが分かる。
この日、五月二十五、二十六日は現在の暦では六月末から七月初め、まさに梅雨の真っ只中の季節である。
四百六十余年前のその日は記録的な大雨であったという。
このとき、海野幸義は三十騎ばかりを率いてその大雨の中、神川を挟んで村上義清と激戦を繰り広げた。(『開善寺古屏風放』)
現在、この合戦の激戦地と伝えられる場所には「海野幸義戦死」という標識が立っている。
この「海野幸義」というのは、当時の海野家の当主棟綱の嫡男である。
この戦いで海野氏は戦いに破れたばかりではなく、嫡男幸義も戦死させてしまった。
海野氏にとっては大事な後継者を失うというあまりにも大きな犠牲を強いられた合戦となった。
諏訪神社の記録『神使御頭之日記』によれば、この村上氏の勢いに、海野一族の禰津(ねづ)氏、矢沢氏はいち早く降参し、本家海野家の当主棟綱は本拠地小県海野郷を捨てて鳥居峠を山越えし、上州(群馬県)に落ち延びていったとある。
古代から小県を中心に大きな勢力をもち、今日まで延々と繁栄をはかってきた名族滋野一族の本家海野家は武田・諏訪・村上氏の連合軍によってたった二日間の戦いで先祖伝来の地を侵略され、そこを追われてしまったのである。

タイトルとURLをコピーしました