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真田家と六文銭18

このとき、すでに当主棟綱の嫡男幸義は村上義清との戦に敗れ戦死していた。 このことから、海野氏の嫡流が滅亡してしまった可能性が考えられる。 そうでなくとも、海野氏嫡流は完全に没落してしまったのであろう。 このとき、真田氏は幸隆の時代を迎えてい...
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真田家と六文銭17

だが、海野棟綱はこのまま引き下がっていたわけではない。 当時、海野家の家老であった深井棟広が高野山蓮華定院に宛て「上杉憲政殿へ本意の義頼み奉られ候間、急度還住致さるべき由」と書状に記していることから、海野棟綱は上州平井城の関東管領上杉憲政の...
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真田家と六文銭16

かねてから小県地方を領地にしたいと目論んでいた村上氏にとってこれはまさに千載一遇のチャンスであったろう。 真田家の歴史を綴った『真武内伝』には、この事件の発端は海野氏の家老であった春原某という者が村上氏へ内応し、海野氏を裏切ったことから始ま...
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真田家と六文銭15

横尾氏・曲尾氏らの豪族の領地と真田氏の領地の距離を地図上で見てみると、直線距離にして三キロ弱、まさに至近距離といえる。 ここから、真田氏は神川を挟んで村上氏という強力な敵と至近に対峙することになってしまったことが分かる。 また、村上氏が本拠...
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真田家と六文銭14

小県地方には今でもたくさんの城跡が残っているが、「千葉城」という名の城はどこにもない。 そのことから、この千葉城の所在は長く不明とされてきた。 しかし、『真田町誌』は『御符札之古書』でいう「千葉城」というのは「洗馬城」のことを指すのではない...
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真田家と六文銭13

史料には、海野氏を攻めたその人物の名は明記されてはいないが、それは村上氏、当時の当主政清と考えられている。 村上氏は信濃更級郡村上郷に起こった豪族で、清和源氏の流れを汲み、源義家の父頼義の弟頼清のとき村上氏を称したことから始まる信濃の名族で...
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真田家と六文銭12

それにしても、真田氏はなぜ海野氏の嫡流にならなければならなかったのだろうか。 そして、そのことになぜそれほどまでこだわらなければならなかったのだろうか。 依然としてその疑問は残り続ける。 ただ、その後の歴史から分かることは、海野氏の嫡流があ...
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真田家と六文銭11

そんな様々な技術をもつ一大集団でもあった彼ら修験者を味方につけることが軍事的にもどれほど重要であったかはいうまでもない。 その海野氏と修験者との関係を示すエピソードがある。 『源平盛衰記』によれば、木曾義仲は養和元年(1181)横田河原の戦...
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真田家と六文銭10

白鳥神社は海野氏の本拠地海野にあり、海野氏は滋野氏の本家としてその修験信仰をそのまま継承していた。 修験者というのは一面は確かに宗教者には違いないが、険しい岩山などで厳しい修行を積んだ彼らは山野荒地を駈け巡りどんな難路をも通行できる技術を持...
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真田家と六文銭9

真田氏が自らの祖と主張する海野氏の名が初めて歴史に現れるのは、保元の乱(1156)を描いた『保元物語』である。 そこでは、源義朝指揮下の武士の中に海野幸親という武士の名がみえる。 その後、治承四年(1180)から源頼朝が平家打倒に立ち上がり...