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真田家と六文銭23

比較的信憑性の高い資料と言われている沼田真田家の家臣であった加沢平左衛門が江戸時代天和元年(一六八一)以降に著したとされる『加沢記』にも、幸隆は海野棟綱の次男で棟綱がその領地の内、真田、小日向、横沢、原郷、荒井など三百貫目の土地を譲ったこと...
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真田家と六文銭22

今も残る真田家系図には、微妙にその流れが二つの系統からなっていることが分かる。「松代藩真田家系図」や「滋野世紀系系図」などその一つの系統は、真田幸隆を村上氏によって信州小県から追放され上州に逃げた海野家の当主棟綱の子としているか、もしくは村...
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真田家と六文銭21

信玄が信濃侵略を推し進めていく限り、近い将来必ず村上義清と衝突せざるを得ない事態がやってくる。信玄が村上氏を倒せば、真田郷の奪還も夢ではない。しかし、それには、幸隆自身が信玄に近づき、信玄のもとで村上氏打倒の先兵として立ち上がるしかない。『...
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真田家と六文銭20

幸隆は様々な情勢分析から上杉氏の力の限界を知り、上杉氏にはもう真田氏や海野氏を再興させるだけの力にはないと判断したに違いない。『加沢記』には「関東管領上杉憲政という人物は信州で聞いていたよりなお愚かな大将である。」という記述があるが、あるい...
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9月のNHK学園

本日は9月のNHK学園の歴史講座の日です。今回は、「徳川家康の手紙」と題して、家康の書状を通して、受講生の皆様と共に長篠の戦い、本能寺の変、小牧長久手の戦い、上田城合戦、北条攻めなどを学んでいきたいと思います。家康の書状には、我々が知らない...
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真田家と六文銭19

『信濃史料叢書』によると、幸隆は上州で毎日悶々とした日々を送っていたとされており、『加沢記』によれば、幸隆は「村上氏は大名なので、容易に討つこともできない。ただ年月を送ることが無念である」と家臣たちに嘆いたとある。このとき、幸隆は村上義清を...
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真田家と六文銭18

このとき、すでに当主棟綱の嫡男幸義は村上義清との戦に敗れ戦死していた。このことから、海野氏の嫡流が滅亡してしまった可能性が考えられる。そうでなくとも、海野氏嫡流は完全に没落してしまったのであろう。このとき、真田氏は幸隆の時代を迎えていた。真...
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真田家と六文銭17

だが、海野棟綱はこのまま引き下がっていたわけではない。当時、海野家の家老であった深井棟広が高野山蓮華定院に宛て「上杉憲政殿へ本意の義頼み奉られ候間、急度還住致さるべき由」と書状に記していることから、海野棟綱は上州平井城の関東管領上杉憲政のも...
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真田家と六文銭16

かねてから小県地方を領地にしたいと目論んでいた村上氏にとってこれはまさに千載一遇のチャンスであったろう。真田家の歴史を綴った『真武内伝』には、この事件の発端は海野氏の家老であった春原某という者が村上氏へ内応し、海野氏を裏切ったことから始まっ...
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真田家と六文銭15

横尾氏・曲尾氏らの豪族の領地と真田氏の領地の距離を地図上で見てみると、直線距離にして三キロ弱、まさに至近距離といえる。ここから、真田氏は神川を挟んで村上氏という強力な敵と至近に対峙することになってしまったことが分かる。また、村上氏が本拠地と...