真田家と六文銭11

そんな様々な技術をもつ一大集団でもあった彼ら修験者を味方につけることが軍事的にもどれほど重要であったかはいうまでもない。
その海野氏と修験者との関係を示すエピソードがある。
『源平盛衰記』によれば、木曾義仲は養和元年(1181)横田河原の戦いで平家方の城太郎資永の軍を破り、北陸路より京都を目指して攻め上がっていったが、そのとき、白山権現に願文を綴っている。
白山権現とは修験の神であり、真田氏が信奉した山家神社も別名を「白山権現」といった。
そして、このとき願文を書いた人物の名は覚明といい、海野幸広の弟とされている。
この覚明という人物、実は修験者・山伏的な学識僧であったというから、自身も修験者であった可能性が高い。
海野氏は身内に修験者をもつほど、その信仰に傾倒していた、というより修験者との関係を深めていたといえるであろう。
後に真田家の家紋となる「六道銭」はこの覚明あたりから海野氏の家紋とされたという。
この辺りに「六道銭」と修験との関係が感じられる。
以上のことから、海野氏は信州(長野県)小県から上州(群馬県)沼田に到るまでその広がりを見せていた滋野一族の頂点に立つ存在であったこと、そして、長年修験者たちを支配してきたそのシンボル的な存在であったということが分かる。

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