真田家と六文銭12

それにしても、真田氏はなぜ海野氏の嫡流にならなければならなかったのだろうか。
そして、そのことになぜそれほどまでこだわらなければならなかったのだろうか。
依然としてその疑問は残り続ける。
ただ、その後の歴史から分かることは、海野氏の嫡流がある時期から急速に没落していき、真田昌幸の父、幸隆の時代にはほとんど滅亡状態になっていたということである。
つまり、真田氏の歴史上への登場と海野氏嫡流の没落が時をまったく同じくしているということである。
ここに真田氏が海野氏嫡流に成り切らなければならなかった理由が存在していることは間違いない。
しかし、なぜ、平安期から続いてきた名池海野氏が没落することになったのであろうか。
長野県の諏訪神社上社に伝わる『御符札之古書』によると、応仁元年(一四六七)の項に「海野満幸、この年の十二月十四日、海野において討死」また、翌二年四月の項には「海野、千葉城のツメ口を取り座され」と記されている。
この短い記録から、応仁元年(一四六七)に海野満幸という人物がその本拠地海野で討ち死にし、翌年海野氏の城であった「千葉城」という城が攻められるという事件があったことが分かる。
応仁元年と二年に海野氏はその本拠地を何者かに侵略されたのである。

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