真田家と六文銭15

横尾氏・曲尾氏らの豪族の領地と真田氏の領地の距離を地図上で見てみると、直線距離にして三キロ弱、まさに至近距離といえる。
ここから、真田氏は神川を挟んで村上氏という強力な敵と至近に対峙することになってしまったことが分かる。
また、村上氏が本拠地とする坂木葛尾城(埴科郡坂木町)も真田町からは山間部を挟むものの地図上からは直線距離にして約十一キロという近さである。
しかも、真田氏の領主ともいうべき海野氏は手を引いてしまったことから、真田氏は一人で村上氏に立ち向かわなければならなくなってしまったことになる。
だが、その後の記録を見る限り、真田氏が村上氏に屈服した事実は見当たらない。
次に村上氏が海野氏を攻めたのは、記録の上からはそれから七十年後の天文十年(一五四一)である。
しかし、この間、海野氏も着々と勢力を貯えて、村上氏に対抗しようとしていたことが『御符札之古書』などの当時の記録からうかがえる。
そこから、村上氏も簡単には海野氏に手出しはできず、それが両者の間に七十年という長い平和というか空白の年月を生むことになったのであろう。
だが、記録は天文十年、村上氏の当主義清が再び海野氏を攻めたことを伝える。
甲斐(山梨県)の国主武田氏の重臣駒井高白斎が記した『高白斎記』には「天文十年五月二十五日、海野平破る、村上義清・諏訪頼重両将出陣。」とあり、諏訪神社上社の記録『神使御頭之日記』には、「頼重、信虎へ合力のため海野に出張す、同じく村上殿同心にて尾野山攻め落とされ候、次の日海野平、同じく祢津を悉く破り候」とある。
これらの記録から分かることは、村上義清は単独で海野氏を攻めたのではなく、甲斐の戦国大名武田信虎が中心になり、信濃諏訪地方の国衆諏訪頼重と村上氏の当主村上義清を誘って挟み撃ちの形で小県海野に攻め込んだということである。

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