真田家と六文銭13

史料には、海野氏を攻めたその人物の名は明記されてはいないが、それは村上氏、当時の当主政清と考えられている。
村上氏は信濃更級郡村上郷に起こった豪族で、清和源氏の流れを汲み、源義家の父頼義の弟頼清のとき村上氏を称したことから始まる信濃の名族である。
村上氏は応永年間(一三九四~一四二七)には本拠地更科郡の他に埴科、水内、高井という北信濃四郡を制圧し、小県郡にまでその勢力を伸ばそうとしていた。
村上氏は宿敵ともいうべき、信濃守護小笠原氏と長い間対立を繰り返しながら、一方でそれに対抗するため常にその勢力の拡大をはかっていた。
諏訪神社上社の記録は村上氏が海野氏の本拠地である海野(小県郡東部町)を十二月十四日に攻めたとしている。
旧暦十二月十四日といえば、現在の暦では一月上旬にあたる。
年末の寒い時期、あるいは海野郷は雪に閉ざされた時期でもあったかもしれない。
常識的に考えて、そんな時期に敵が攻めてくるなどとは誰も考えない。
海野郷の人々でなくても、人々は気をゆるめ、ろくに戦闘の準備などしてはいなかったろう。
村上氏は海野攻めを周到に準備し、その年末の一瞬の隙を付け狙ったともいえる。
当時の海野家の当主は氏幸であったが、海野氏の一族と思われる海野満幸が討ち死にしていることから、海野郷は村上氏の突然の攻めになす術もなく防戦一方に追われたのかもしれない。
しかし、記録からいえることは、村上氏の海野氏攻めはそれで終わりではなかったということである。
村上氏は今度は翌年の四月に海野氏の城「千葉城」を攻めてきたのである。

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